読書録

シリアル番号 769

書名

白洲正子自伝

著者

白洲正子

出版社

新潮社

ジャンル

自伝

発行日

1999/10/1発行
2003/10/30第7刷

購入日

2006/5/1

評価

新潮文庫

このところ白洲正子に興味を持って集中的に読んでいる。S.K.より借用、鬼がでてくるという。

冒頭から祖父樺山資紀(かばやますけのり)の若き頃の武勇伝がでてくる。

「 津本陽氏の『薩南示現流』(1983年、文藝春秋刊)に、このような逸話がのっている。示現流(じげんりゅう)というのは、薩摩の島津藩で行われていた剣道で、その使い手の指宿(いぶすき)藤次郎が、京都祗園の石段下で見廻組に殺された。むろん幕末のことである。

その時、前田某という若侍が同行していたが、彼はいち早く遁走した。指宿は五人の敵を倒したが、下駄の鼻緒が切れて転倒し、無念の最期をとげたという。

その葬儀の場に、橋口覚之進という気性のはげしい若侍がいて、焼香の時が来ても、棺の蓋を覆わず、指宿の死顔を灯びのもとにさらしていた。彼は参列者の中から前田を呼んでこういった。

『お前が一番焼香じゃ。さきィ拝め』

ただならぬ気配に、前田はおそるおそる進み出て焼香し、指宿の死体の上にうなだれた。その時、橋口は腰刀をぬき、一刀のもとに首を斬った。首はひとたまりもなく棺の中に落ちた。

『こいでよか。蓋をせい』

何とも野蕃な話である。が、橋口にしても、前田にしても、そうしなければならない理由があった・・・
ここに登場する気性のはげしい橋口覚之進なる若侍こそ、何をかくそう私の祖父の若き日の姿である。のちに橋目から樺山へ養子に入り、資紀(すけのり)と称した。ひと太刀で首を落したのをみると、示現流のかなりな達人で、鹿児島の高見馬場郷中に属していたらしい・・・

大磯の『鴫立沢(しぎたつさわ)』の前にささやかな別荘があり、二股にわかれた老松があったので「二松庵」と呼んでいた。晩年はそこで暮していたが、別に園芸場と名づける別荘が山手の方にあって、花や野菜を育てており、毎日そこへ通うのを日課としていた・・・ 」

とある。鴫立沢は坂東33ケ所を巡礼しているとき通りかかったので覚えている。

さて薩摩の青少年は郷中という教育組織に属してこのような激しい気性と涵養し、明治維新の原動力になりえたのだろう。司馬燎太郎は「熊野・古座街道 種子島みち ほか」で熊野や薩摩に残っていた南方系の若衆組という若者の自治組織の効能を語っている。

読み進めてゆくと海軍大将だった川村純義も薩摩隼人で彼女の母方の祖父に当たり、性格は韋駄天だったという。青山二郎が白洲正子に”韋駄天お正”なるあだ名をつけたが、この血気にはやる性格は母方の血を濃く受け継いだということだろう。川村純義は引退後、昭和天皇の養育係りとなり、その教育のためと称して反対する宮内省をねじふせて沼津御用邸を強引に作ったという。公式には大正天皇の夏の避暑地として作られたということになっているが、これは宮内省側の公式発表ということなのだろう。真の目的が秘匿される例として面白い。

画家の黒田清輝は正子の父の従兄弟で”湖畔”や”読書”は樺山家にあったものだという。戊辰戦争当時会津を攻めた側の樺山一家がその敵だった会津の殿様のお嬢様と秩父宮との縁談に一肌脱ぐ話など、意外な面が語られる。このほか鹿鳴館、ニコライ堂、綱町三井倶楽部、岩崎家の開東閣を設計したコンドルが樺山家の麹町区永田町の洋館を設計したという話も歴史の一幕だろう。これは残念ながら戦火で消失し、今は自民党本部界隈になるのだろうか。御殿場の別荘だったところは今、御殿場市立西中学校になっているという。

ほかにも京都や鎌倉を戦火から救ったというラングドン・ウォーナー、松方コレクションの松方、獅子文六、牧野伸顕、吉田茂、野村吉三郎大将、駐日大使グルー、国際文化会館の松本重治 、サンタフェ鉄道のオーナーであるアーサー・カーチス・ジェームス、パークアベニュー1番地のバンダービルド家などの名前がぞろぞろでてきて驚いた。

河上徹太郎とは軽井沢の別荘の縁で知り合いになり、進駐軍に発禁処分にされた吉田満の「戦艦大和ノ最後」の出版許可を取ってくれと小林秀雄が白洲二郎に頼みにきたことから小林秀雄、今日出海と親しくなり、彼らと親しい青山二郎との関係もできてゆく課程が語られる。 彼女は吉田満はその後たいしたことせずに死んだと書いてあるが、日銀監事になっている。 正子の評価としては何か物を書くということをしなければなにもしなかったということになるのかもしれない。

柳原白蓮が九州一の炭坑王の伊藤伝右衛門から全てをなげうって宮崎竜介の元に走ったことで小説にもなっているが、実物に会ってみると、思想性もなく、華族から出たただの平凡な女性であったと評価している。実像はそんなものかもしれない。

彼女がパーレビ王朝時代のテヘランで華僑が一人も居ないことに気がつき、ジンギスカン一族の残虐行為がイラン人に忘れられないためだという理由はいままで知らず斬新に聞こえた。

共産党支配下のハンガリーを訪れて、手工芸品のレベルが低いのをみて「えてして平等ということは、それ自体は結構なことであるけれども、美術の世界では、玉石混交となって安易に流れる恐れあり、見る人の側もそれに馴れて鑑識眼を失ってゆく」と書いているが私も共産時代のロシア、中国を訪問して感じたことである。

ハンガリーのバラックというブランディーは杏から作るということもこの本で知った。 「白洲二郎の流儀」に娘の桂子が書いているストラトフォード伯爵も出てくる。彼女の英国人評は私も同感。

西国巡礼にも触れているが、1番の那智の滝と25番の播磨の清水寺が印象的だったようだ。718年、大和の長谷寺に徳道上人が発案したわけだが、選ばれた霊場はいずれも高い山の上にあるので、徳道上人は仏教もさることながら日本独特の山野で修行する山伏の経験もあるのではないかと白洲は推察している。

Rev. October 19, 2007


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