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コンドルは飛んで行

その4
       マチュピチュ
      

2004年5月3日(月)
 5時45分と早朝にホテルを出発。

 クスコサンペドロ駅6時10分発のE号車に一行は乗る。紺色のカラ−の車両。クスコの標高は3360m、終点のアグアスカリエンテス駅は標高2000m。クスコを出て4回ばかりスイッチバックを繰り返す。

 オリャンタンボまではワロコンド川沿いを、オリャンタンボを過ぎるとウルバンバ川沿いに渓谷を進む。終着駅に近づくところで4月12日土砂崩れがあり、大きく崖を削っていた。10時頃から雨が降り出してきた。合羽をつけたりして到着時には忙しかった。車両を降り線路ぞいに歩き遺跡までのシャトルバスに乗る。

 遺跡の入り口あたりでは雨が勢いを増して降った。農地管理人住居跡の手前でアンデネスのビデオを撮りながらガイドの坂口さんのこの遺跡についての概略を聞く。しばらくすると小雨になってきて合羽を脱いだ。50分くらい雨の中での見学、そして雨はすっかりあがり天気になった。雨男女、晴れ男女の声。

 精巧に石を積み上げたアンデネス(段々畑)の眺めはすばらしい。よくもまあこれほどまでにして耕地をこしらえたものと感心する。1時30分に遺跡出口に集合になっていたので、約2時間半の見学。主なところはガイドの説明を受けながら見学することが出来たが王・庶民・技師の居住区域の地区は見学できなかったのが残念である。

 写真(アナログ、デジタル)とビデオの撮影で忙しく、それでも数分の時間持参した三脚を使用した。

 2時過ぎにカフエ・インカテラヴァイキング料理。15:55分発の汽車で帰る。帰りはクスコの手前のポロイ駅で降りクスコの夜景写真を撮る。20時にホテルに帰る。
失われた空中都市マチュピチュ遺跡:
 16世紀半ば、インカの人々は高度な文明の栄えたマチュピチュを残し、さらに奥地にと消えていった。その後この遺跡は400年以上も人の目に触れることなく、草の中の廃墟となっていた。アメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムが1911年7月インディオにあの山(マチュピチュ山)の尾根の上に大きな石造の遺跡があることを教えられ、計3人で苦労ののち、一軒の農夫小屋についた。2人の農夫が住んでいた。ビンガムはさらに上に登り石の建造物群を発見しマチュピチュ(老いた峯)とワイナピチュ(若い峯)が結ぶ尾根の上に築かれたこの空中都市をマチュピチュと名付けた。ビンガム以前にも盗掘者がこの遺跡を見つけており、従ってビンガムは科学的発見者といわれる。
 1912年イエ−ル大学とNationalGeographicSocietyの協力を得て新たに調査を行い173体ミイラ(そのうち150体が女性と)や陶器、道具、工具等を発見したが黄金で作られた物は発見されなかった。ミイラは女性が多いという発表も後日の科学的検査でほぼ男女同じ数であるとのことである。

 マチュピチュはクスコ地区を狙う敵に備える防塞であったという説や宗教的な目的のためにわざと僻地につくられた聖都であるともいわれ、現在では宗教的なものと考えれている。プレ・インカ的な要素は見られず、1430年以後のインカの発展期に造られたものと考えられる。
峡谷を進む汽車 アンデネス(段々畑) 水汲み場 皇女の部
水汲み場 陵墓 太陽の神殿 太陽の神殿
三つの窓のある神殿 主神殿 地震で崩壊した主神殿 遺跡からみたウルバンバ川
マチュピチュ(老いた峯)山 ワイナピチュ(若い峯)山 インティワタナ(日時計) 遺跡に咲く蘭の花
石切場 遺跡風景 コンドルの神殿 太陽の門