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その3
オリャンタイタンボ、ピサック、タンボマチャイ

2004年5月2日(日)
 
9時すぎ、ホテルを出る。10時前にオリャンタイタンボ遺跡に着く。

 聖なる谷の中心にあるのがこの遺跡でインカ時代の宿駅跡とも要塞跡ともいわれる。
 
 斜度45度くらいの段々畑が広がり(約300段)、登りつめたところに広場があり、太陽神殿がある。遺跡の頂上には太陽神殿の一部を構成していたと考えられる6枚の巨石の壁があり、その1枚にはジグザグの菱形のインカ十字が刻まれているが、かなり磨耗している。その前で2人のインディヘナの子供が踊りを踊りお金を要求する。巨石と巨石の接合部分には細い石が使われおり、クスコの石と石を積み重ねた手法とは違っている。

 対岸の山の急斜面には見張り小屋のような建物があり兵舎、牢獄、穀物倉庫などの説がある。水汲み場や皇女の浴場を見学。皇女の浴場では水壷に落ちる手前の水路に割線が入っていて指先でその溝の上をなでると水が止まるようになっていた。

 インカ時代の村の様式や家の建築様式(外壁で四方を囲んだ空間の中に部屋や家をしきたカンチャ・スタイル)の残っている村を散策した。ウルバンバ川の川傍の、お花畑に囲まれたトゥヌ−パ・レストランでヴァイキングの昼食をとる。

 インカ時代の皇帝の沐浴場だったタンボ・マチャイ遺跡に行く。インカ時代の皇帝たちの沐浴場で、雨季・乾季を通じて水が流れているが、その水源は不明とか。その後、ケンコ−遺跡をバスの中から見学する。インカ帝国の祭礼場であったといわれ、岩に霊力があると信じられ、この岩に触れに来る人も多いとガイドの説明。
 
 クスコのアルマス広場に近いロイヤル・インカ2ホテルに着く。8時からホテル近くのドン・アントニオ・レストランで民族ダンスとアンデス音楽のショ−を見ながらヴァイキング料理。クイ(食用天竺ネズミ)を少しかじったが食べれなかった
 
 明日はこの旅行のハイライトのマチュピチュ見学。
段々畑 神殿 6枚の巨岩 石積みの畳壁
対岸の小屋 皇帝の娘を恋したオリャンタイ将軍 皇女の浴場 水汲み場
村の広場 オリャンタイタンボ村落 インカ時代の名残を残す村 村を流れるパタカンチャ川
インカの道:
 インカ帝国は生産の管理と分配の手段の一つとして道路網を整備した。インカ道と呼ばれる。王道はクスコを中心に四つの方向(東西南北)に造られた。道にそってタンボという宿泊所が設けられた。そこには旅行者や軍隊など多くの人が泊まり、また食料や武器なども貯蔵されていた。また、支配者が情報を得るためにも利用され、チャスキ(ケチュア語で飛脚)がタンボに待機していた。インカ時代チャスキは1日に約280kmを走破したといわれる。
傀儡皇帝マンコ・インカの反乱: 1533年インカ帝国最後の第13代皇帝アタワルパがカハマルカでピサロにより絞首刑にされたのち、ピサロはアステカの征服者コステロか「王を手中につかまえれば勝ち」の体験談を聞いておりインカの権威を利用するためアタワルパやワスカル(クスコにいたがアタワルパの手下に殺される)の父ワイナ・カパックの息子マンコが利用した。マンコは最初はスペイン人を大いに黄金で接待していたがあまりの非情な仕打ちに遂に反乱を起しサクサイワマンでクスコを水攻めなどで包囲したがすぐに攻撃をという部下の命令を聞かず、自分の苛め抜かれた状況にスペイン人をしたいと思ったが、3ヵ月後に包囲を破られオリャンタイタンボに退却した。ここでも優勢に戦ったが奥地に退却した
タンボ・マチャイ遺跡 タンボ・マチャイ遺跡
ピサックの市場 ケンコ−遺跡 レストランでの音楽 レストランでの音楽