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中村王子~吐前王子~川端王子 | ||||||||||||||||
<中村王子跡> 中村王子社跡掲示板 熊野古道 中村王子社跡 川辺から神波、楠本にかけて、平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけ盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。 この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遙拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。 楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。 川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣道の道筋が年代によって 多少変わったためと考えられる。 中村王子社の次の王子社は、紀ノ川を渡って吐前王子社となる。 平成五年三月三十一日 和歌山市教育委員会 大屋都姫神社 川辺王子と中村王子の近く、紀伊駅から南へ1kmでに着く。 2つの王子からだと、川永団地中心の道を抜け、西へ少しいったところにある。 小さいがきれいな神社である。 神社一帯の宇多森遺跡は弥生時代中期から後期の遺跡で、土器・石器などが多くでた。 そこからさらに、西に約400mいったところには、北田井遺跡がある。こうした遺跡を見ると、このあたりは紀ノ川沿いでもあり古くから開け、栄えていたことが分かる。
<吐前王子跡> 中村王子跡の看板から、南に向いて行くと紀ノ川の土手に出る。 土手の下には紀ノ川の渡しの説明板がある。 往事はここに渡しがあり、たくさんの人々の行き来を見守ったであろう。 現在は、土手を登り、右に曲がって川辺橋に迂回して渡る。 現在の紀ノ川は、水量が少なくなって、歩いてでも渡れそうである。 川を渡ってすぐの吐前王子へは、和歌山方面からだと、旧国道24号線沿いの土手の下にある「明楽ダンボール」工場の方に下って右折し、細い道を南に走る。 途中JR和歌山線の踏切を越える。 吐前王子も、中村王子と同じく全く痕跡がなく、掲示板も見つけるのが大変であった。 掲示板までの道も非常にわかりにくく、探すのに一苦労した。 「御幸記」に、 「忠信少将、参会す、少時 先 この王子に参る ハンサキ」 と記載されている。 紀ノ川の南堤は大和街道である。 「吐前」は「倭名類聚抄」に「那賀郡埴崎」とあって古い地名である。 掲示板のまわりは畑で、近くにはスクラップ工場がある。 このあたりも、実際の古道の道筋を特定することは、不可能である。 位置的に見て、紀の川を渡り終え、ほっと一息入れる場所であったことは想像に難くない。 特に水が出たときなど、無事にわたれたことを喜んだであろう。 しかし、後世の人々は、紀ノ川を和佐方面に渡ったので、次第にこのあたりが寂れていったようである。 吐前王子社跡掲示板 熊野古道 吐前王子社 紀ノ川北岸の中村王子社から紀ノ川を渡って再び熊野参詣道は続いて行き、ここに紀伊国で北から5番目の王子社である吐前王子社が設けられた。 紀ノ川の渡河については、平安時代には詳しい記録はないが、鎌倉時代から室町時代の記録には現在の川辺橋付近を船や浅瀬を馬で渡ったことが記されている。 熊野参詣道はここからやや進んだところで一端西へ曲がり、次の王子社は現在の布施屋にある川端王子社である。 平成5年3月31日 和歌山市教育委員会 <川端王子> 布施屋から井の口へいく道路の右側にある。 戦争中、神社参拝の行事が多く、川端王子社の合祀されている高積神社までの距離が遠くて不便なので旧王子社跡に遙拝所として建てたのが今の祠である。 「紀伊続風土記」には 「昔は、村の西七町小栗街道にあり、今 村中に移す。和佐の王子と称す・「寛文起」に言う和佐王子二社 一つは坂本にあり、一つは川端にあり。というは、すなわち これなり。森、古松多し。」 とある。 川端王子社前の掲示板 江戸時代の終わりに編さんされた『紀伊続風土記』には、川端王子について 「昔は村の西七町小栗街道にあり、今、村中に移す」と記されている。 小栗街道は熊野参詣道の別名で、これによると古くは熊野街道をここから約700メート ルほど南西へ進んだあたりにあったものであろう。 建仁元年(1201年)の後鳥羽上皇の熊野詣に随行した藤原定家の旅行日記である『御幸記』には「川端王子」の名前はみえず、それ以降に設置された王 子社とも考えられる。 王子社の後身である王子神社が長く所在したが、明治43年に神社合祀によって高積神社に合併され、小祀を残すのみとなった。 次の王子社は、南西約2.3キロの和佐王子社である。 祇園南海 天は二物を与えた [1677~1751・和歌山市生まれ] 代々紀州藩の医者でしたが、祇園南海は家をつがないで、わずか9才で江戸に出て、木下順庵の門下生として儒学・漢詩を学びました。順庵は、幕府の儒官で朱子学の大家でした。 詩作にすぐれた才能をもっていた南海は、17才のとき、昼から夜半にかけて五言律詩を百首も詠みました。 しかし、人々は「ここで詠んだものではない」と信用しませんでした。 日を改めて、席題をたてたところ、同じようにすぐれた詩を百首詠み、人々を驚かせました。 当時の三大漢詩人の一人として知られています。 正徳元年(1711)には、幕府の命によって”公儀筆談”をおおせつかり、江戸城内を訪ねる朝鮮の文人たちと筆談し、交流をはかりました。この役をすすめたのは友人であった新井白石でした。 また、南画を描かせると、これまた画才があり、四君子といわれる蘭・竹・梅・菊などをよく描き、その作品は超俗的で格調が高く、日本の南画の始祖といわれています。 ▲ページトップに戻る
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