|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日前神宮・国懸神宮~中筋邸 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<日前神宮・国懸神宮> 日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体とし、日前大神を祀っている。 國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を祀っている。 神代に、天照大御神が天の岩窟に隠れた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御神の心を慰めるため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造したという。 そのときに鋳造された天照大御神の「御鏡前霊」(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、後に鋳造された鏡を伊勢の神宮の御神体として祀られたと『日本書紀』に書かれている。 いわゆる天皇の子孫が降臨のした際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を「紀伊國造」(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に祀ったのがここ日前神宮の起源とされている。 その後、崇神天皇51年、名草郡濱ノ宮に遷宮し、垂仁天皇16年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷されたという。 紀氏(きいし)によって歴代奉祀されてきた。 また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ばれている。 戦国時代は、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内が荒廃し、社領没収の憂き目に逢ったが、徳川時代に紀州藩初代藩主、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が社殿を再興し、明治4年太政官布告による神格の制が治定されると、官幣大社(かんぺいたいしゃ)にならんだという。 社殿や施設などは、大正8年境内建物すべての改善工事によって一新され、大正15年3月完成、現在の姿となった。 後鳥羽上皇一行は、通常の参詣道で進んだが、定家は、ここ日前宮に奉幣している。 鎌倉時代には恒例になり、承元4年の修明門院、健保5年の後鳥羽上皇御幸記などにもその記述がある。 近くを大和街道が通り、戦国時代以降は和歌山城も近くにあり、ここを参詣のポイントとしてたくさんの人々がお参りしたことは想像に難くない。 境内は木々がうっそうと茂りここが都市部であることを忘れる。昼でもなお薄暗い。 司馬遼太郎氏もここの森を絶賛しており、「街道を行く 紀ノ川流域編」で、『古神道をしるには、書物を読むよりこの森にくるといい』と書いている。 私が勤めていた会社もこの近くにあり、何かあるとここでお払いをしてもらった。特に新年の安全祈願には県内の会社がここに詣で、一年の安全を祈願する。 ここは、ヒノクマノミヤ(日前宮)とクニカカスノミヤ(国懸宮)は対の宮で、併せて「日前国懸宮」(ひのくまくにかかすじんぐう)というのが正式らしいが、私たちは「日前宮」とよんでいる。又それの方が親しみ深い。 前を走る道は、「宮街道」と呼ばれている。 阪和高速和歌山インターを和歌山市内方面にでるとすぐにある。 中筋邸 弥宜集落を通り、矢田峠を越える道が往古の熊野古道であるが、弥宜集落の東辺に歓喜寺がある。 歓喜寺の西に中筋邸がある。 和佐組大庄屋中筋家の住宅で約2500平方メートルの広大な敷地には表門・主屋・長屋蔵・北蔵・西蔵・御成門(いずれも国重文)ほかの建物があり、江戸末期の遺構をよく残している。 しかし建物の現状は、屋根瓦が落ちかけていたり、塀の漆喰がはがれたりで、重文の価値があるものには見えない。 このままでは朽ち果てるだけである。私たちも中を見てみたいがそれすらできない。 早く何とか保存の方法を考えないと、せっかくの文化遺産が残っていかない。 人類の生きた証である文化遺産を、後世にきちんと残していくセンスがこれから大事である。 施設の維持管理にはたくさんのお金がかかるが、今を生きているものには、未来に伝える責任がある。 お金にかえられないと思うのだが・・・ 行政の文化遺産の将来を考えた取り組みが望まれる。 現状では、中筋邸に限らず、かなりお寒い状態である。 特に和歌山市の、文化遺産への取り組みは、遅れている気がする。 (今年再度訪れたときには、建物の周辺に足場を組み、修復作業にかかっていた。修復されたときが楽しみである) うれしかったのは、この屋敷の周りの水路にメダカやタニシがあり、元気に泳ぎ回っていたことである。 大阪の末期的な川ばかり見てきたものにとって、環境変化に敏感なメダカやタニシの日本種が元気であることはうれしい。 当歳の子メダカがたくさんあり、親らしきものもたくさん泳いでいた。 和歌山は自然を取り戻せる。遅くはないので今からきちんとした環境保護をすれば、共生が可能である。 と以前訪問した折に書いたが、その後改修され立派によみがえった。 以前から気になっていた、中筋家の修復現場に行って来た。 市役所の担当(と思う)の方が、2名ほど事務所におり、隣のプレハブの作業場では若い大工さんが、柱をかんなで削っていた。作業場の中は、住宅で使用していた古い材木と、それに継ぎ合わせる新しい材木とが、すべてに番号を付けておかれていた。事務所の担当の方に声をかけ、住宅の中を見学させてもらった。 住宅は、頑丈な足場が周囲を包み、半透明のビニールトタンですっぽりと覆われていた。 やはり、かなり痛んではいたが、基礎となる梁や根田はまだしっかりしていた。 日本住宅の良さを改めて感じた。 中に入ると、二人のご婦人が、柱や梁の周りをしきりにペンチでつついていた。 何をしているのか聞いてみた。 「これは、米に付く虫が、柱や梁に巣を作って卵を産んでいるので、それを穿り出してるんです」 なるほど、梁に穴が無数にあり、その中になにか詰まっている。 「大変ですね」 「そうやね。この辺が米倉だったので一番被害が大きいね」 ご婦人方は、暑い中黙々と作業を続けていた。 赤いチリトリにはたくさんの巣が穿り出されたまっていった。 今回見学させてもらって、こうした文化財の維持管理の大変さを、改めて知った。 写真の中で四角の小さなラベルがわかると思うが、これは、すべてナンバリングされており、管理されているようであった。 壁土や瓦もきちんと分類され並べられていた。こうした地道な作業が、「日本」を次世代に引き継ぐのである。 作業を目の当たりに見てうれしくなった。 今後の希望としては、中筋家住宅周辺は綺麗な田圃であり、この住宅だけではなく周辺の民家も昔の良さをとどめたおうちが多いので、歴史歩道のようなルートを整備してほしいということである。 熊野古道と大和街道の合流点はすぐ近くであり、周辺には歴史を物語る施設や遺跡がたくさんある。 ルート上の水路にはメダカやフナがたくさんあり、かなり大きな鯉も群れていた。 現状の道路には、道しるべの標識ぐらいがあればよく、特に手を加えなくても、和歌山駅→紀伊風土記の丘→大和街道→熊野古道→海南駅とうまくルートができる。 そんなことを考えていると、この住宅修復の完成が待ち遠しく、そして楽しみである。
▲ページトップに戻る
|