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万呂王子跡~三栖王子~八上王子~稲葉根王子~一ノ瀬王子~鮎川王子~清姫墓 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<万呂王子跡> 古道は、秋津王子を出てから会津川右岸を歩く。この道が正しいのかどうかは定かではないが、この道が一番古道らしいルートである。 このころから暑さが増して来て、皆汗だくとなった。 しかしコンクリートの道よりは遙かに歩きやすく、川の中で遊ぶ鯉を見ながら歩くのもよい。 熊野橋のたもとに、きれいな地蔵堂がある。 万呂王子は、会津川沿いにある。 御幸記には秋津王子を出てから、山を越えて着くとあるが山はもうない。 というより、王子そのものがあちこち移転したのではないか、と考える。 本宮ですらそうであるように、川渕に建てられているものは、洪水やらの天変地異でいろいろ変わるのが常である。 ともかく、この王子跡も探すのに時間がかかった。 現在は梅林の境目に、粗末な杭が一本建っているだけである。 案内板と杭はかなり離れて設置されている。 浄覚山報恩寺 下三栖岩屋谷にあり、臨済宗妙心寺派のお寺という。 創立年代は不詳だが、永享年間(室町時代前期、1429~1441)には既に存在していたことが書かれているという。戦国時代に焼かれたが、復興した。 明治18年(1885)、高坊の善光寺如来を、知法寺本堂西側に移して、これを本尊としたという。 大正5年(1916)、寺の名を竜口山知法寺から浄覚山報恩寺と変えた。 本堂は昭和34年に新築され、木造瓦葺き四間四面の入母屋造り。 客殿は平成7年に新築され境内は3.5ヘクタール余りという。 寺の山には西国三十三ヶ所もある。 「岩屋観音奥の院 六キロ余りで田辺町 春は桜の善光寺」と歌われているが、桜の木がたくさんあった。 春にはさぞかしきれいなことだろう。 昼食の休憩にちょうどいいところであった。 本堂前にある樹齢350年以上の大蘇鉄は滅多に見ることのない大きさである。 庭園も美しい。 <三栖王子> 三栖王子は、会津川沿いにある。 三栖の地名は藤原為房の日記、「大御記」にあるという。 為房は英保元年(1081年)10月に熊のに参詣した際、三栖荘で宿泊したという。 王子の名は藤原定家の日記にでてくるのが最初であり、それには「ミス山王子」と書かれている。 室町時代には、すでに、三栖から塩見坂(潮見坂)越えの道が開かれていた。 明治初年に八坂神社の摂社となり、同11年に一倉神社境内に移転した。 他の道しるべでは「ミスズ王子」などとなっている。 私が訪れた日は雨で、報恩寺周辺の梅の緑がきれいであった。 オハグロトンボが多く飛び交っていたが、会津川の水がきれいな証拠であろうか。 梅の収穫時期であり、落ちた梅が道に転ばないようにネットで囲いし、実を受けていた。 三栖王子跡から八上王子までは、いかにも古道らしい山道が続く。岡道と呼ばれている。 まわりは梅林である。 途中道が分岐しており、看板があやふやなため少しとまどった。昔はこんな道が続いたのだろうと思う。 昼を過ぎて暑さはさらに厳しくなってきていたがやはりコンクリートよりはこうした山道の方がいい。 八上王子へは、古道が新岡坂トンネルの入り口に出てくるので、きれいな道を横切り川沿いに少し歩くと行き着く。 途中あまりきれいでない池がある。 三栖谷池である。 <八上王子> 八上王子は、古くから熊野九十九王子の頭王子と伝えられている。 尊神は八上王子権現で本地十一面観世音菩薩であったが行方不明になったという。 昔は聖護院の宮様御入峰お通りの時は、下三栖高坊道端へ八上王子の札を立てたという。 現在は八上王子として、敬われ境内も広々としていかにも歴史のある神社としての風情がある。 現在は、バイパスが開通し、非常に行きやすくなっている。 私が訪れた日は、神社前の民家では梅の天日干しの最中で、梅独特の甘酸っぱい香りがあたりに立ちこめ何ともいえないいい気持ちになった。 ここはまた、西行の歌にも詠まれているとおり、桜の名所であり、現在は近所の人々により若木が植えられているという。 西行法師はここで、 「待ちきつる 八上の桜 咲きにけり あらく おろすな 三栖の山風」 と詠っている。 田中神社 熊野詣での道は、室町時代の頃に、三栖山王子を経て八上王子に出るかつての御幸道のほかに、上三栖から潮見峠を越えるコースが開かれたようで、江戸時代にはこの潮見峠が利用されていたという。 いまはバイパスが稲葉根王子のそばまで伸びており、田辺市内から国道311号までの時間がかなり短縮された。 近くには、古代の種子から発芽した「大賀ハス」の群生地がある田中神社がある。 <稲葉根王子> 稲葉根王子へは峠を越えていくが、私たちは新道を歩いた。 松本橋のたもとには、ひょうたんを形取った碑があり、祠の中には大小さまざまなひょうたんが飾られている。ここから道沿いに稲葉根王子へと向かう。交通量が多く気を付けなければならない。特に世界遺産登録されてから交通量が増えた気がする。 八上王子から上富田町に入った熊野古道中辺路は、富田川を臨む稲葉根王子へと道を進める。 稲葉根王子は、国道311号線に沿ってある。写真を撮っているとき、近所の人らしいおじさんが声をかけてくれた。 大きくはないが手入れのよく行き届いた境内である。この王子は、稲持王子とも呼ばれ、里神楽が奉納されていた。 ここには本社として稲荷社が祀られているが、「宴曲抄」には、 「見すくし難き稲葉峯、穂並みもゆらとうちなびく、田頬を過ぎて是や此の、岩田の里の河の一ノ瀬」 とこの地の豊かな稔りがうたわれている。 このあたりから、富田川の清流は熊野参詣の人々のみそぎの川となっていたようである。 「源平盛衰記」では富田川の滝尻あたりから下を、石田川として登場し、稲葉根王子前の付近は「一の瀬」の垢離場であったことがうかがわれる。 川辺には水垢離場跡をしめす碑と案内板がある。 その横には、坂本冬美が植えたという桜があり、案内板が立っている。 遥か奥熊野から流れてくるこの聖なる川を、一度でも渡れば過去もろもろの悪行煩悩が消えると、強く信じられていたのである。 上皇も女院も、布をつないで結び目に捕まったりしながら歩いて、この川を渡ったと伝えられている。 碑と河原の間は広い駐車場になっているが、チェーンが張られて入れなかった。もっと解放してほしい。 また境内に2つの歌碑があるが、その一つの後ろが電柱とその支線が不粋に打ち込まれている。世界遺産を守るということは、こうしたところまで気配りがほしいのである。 確か以前来た折りにはなかった気がするのだが。 道は今度は富田川沿いになる。 先にも書いたが、海の水垢離は、出立ち王子の周辺で行ったが、いよいよこれから熊野の山中にはいるという、このあたりの河原で体を清めたのであろうか。 富田川は今でもきれいな川筋を保っている。
<一ノ瀬王子> 稲葉根王子から市ノ瀬王子までは、いったん国道311号線を歩くが、市ノ瀬橋を渡り左に田圃の畦を行く。 折から彼岸花が満開であった。 一ノ瀬王子は別名市ノ瀬王子とも清水王子とも呼ばれている。 王子社は、稲葉根王子から2kmほど行った、岩田川左岸市ノ瀬村小山の街道右寄りの奥まったところにある。 別名を、「清水の王子」「伊野王子」ともいい、江戸時代に再建後、村人の崇敬を集めていた。 明治末年の神社合祀により、対岸の春日神社に合祀された。 ここからさらに二の瀬、三の瀬と苦行の垢離を重ねて古道は続くのである。 古道はこのあたりから、いかにも歴史街道にふさわしく、細く危険なルートとなる。 雨上がりなどは十分注意する必要がある。 細い道の左手に富田川が流れ、右手は植林された山が続く。 しかし、今回歩いてみると、道はきれいに整備されており、危険な個所も少なかった。 ポイントポイントに川を見下ろせる休憩所があり、清流を泳ぐ魚が見えた。 山道を過ぎると、古道は川沿いの舗装道路を行く。しばらく歩くと住吉神社に着く。ジョエルさんは健脚である。
鮎川王子は国道311号線のバス停付近に碑だけがある。 明治7年、鮎川王子は対岸の住吉神社に合祀され、社殿もそのとき一部改築し移されていたため、明治22年の水害には流失を免れた。 その社は現在住吉神社第3殿となっている。 碑の後ろの山は王子山、権現山と呼ばれ、国道から少し登ったところに権現神社が祀られている。 旧の鮎川王子社は、水害までは現在の川の中にあり、災害の後地形が変わり、さらに近年の道路拡幅などでさらに社地が削られた。 現在碑の建っているところは境内の一部であろうと思われる。 境内には、歌手阪本冬美が植樹した木があり、記念碑が建っている。 真砂の里を過ぎると古道は滝尻へ。 熊野山の聖域への入り口とされた滝尻王子は中辺路の重要な通過点。 いよいよ熊野の神々が宿る霊山へと足を踏み入れていくのである。 清姫の墓 平安初期(908)真砂の庄屋、清重の一人娘として清姫は生まれた。 清姫は、清楚な娘で、男たちのあこがれの的であった。 縁談は降るようにあったが、13歳の年、毎年熊野詣でをする安珍に、妻にすると密かにいわれ、,清姫もその気になった。 ある夜安珍は、障子にうつる影から、清姫が蛇の化身である事を知り恐れた。 清姫は、安珍がそのような思いを抱いているとは知らず思いつめ、我が胸のうちを安珍に語り、早く奥州へ連れていって欲しいと頼んだ。安珍はびっくりし、申し入れを避けようと熊野参詣の途中なので、帰りには必ず迎えに来るとその場限りの言い訳をし逃げた。 清姫はその真意を知らず、下向する安珍の迎えを待ちわびたが、あまりにも遅いので旅人にたずねた。 旅人は、その僧ならもう12、3町も過ぎているだろう、と答えた。 清姫は約束を破られたうえ、道を変え避けて逃げられたのだと察し、あまりの悔しさに道に伏して泣き叫んだ。 やがて気を取り直した清姫は、潮見峠まで後を追い杉の大木によじ登り、田辺の会津橋を渡る安珍の姿を見つけた。 清姫は、安珍の逃げゆく様を見て叶わぬ思いと悟り、この世で添えぬものなら死んで思いを遂げんと、荘司ヶ渕に身を投げた。 その一念が怨霊となり、道成寺まで蛇となって後を追い、鐘に隠れた安珍を七巻半して炎で包み焼死させ、思いを遂げたのである。 安珍と清姫の悲恋伝説は、「道成寺物語」として世に広まった。 町内には、清姫にまつわるたくさんの遺跡がある。 清姫が水垢離をとったという「清姫渕」、その時衣を掛けた「衣掛松」、安珍の帰りを待った「清姫のぞき橋」、水鏡にした「鏡岩」、蛇となってその幹をねじた「捻じ木の杉」がある。 もともと清姫は、真砂の豪族に救われ、恩返しに巡礼となって現われた、白蛇の化身から生まれたとされている。 ▲ページトップに戻る
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