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千里王子~三鍋王子~芳養王子~出立王子~闘鶏神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
<千里王子> 平安時代の延暦年間(781年)に鎮座したと記録されている。 この王子社は、後ろは山を削り本殿をもうけ前は海岸に突き出て拝殿のある石垣上の社殿は整っている。 天気のいい日は遙かに四国が見える。 古道は、打ち寄せる波に足を洗われながら海辺を歩く。 足を洗われることで清めの垢離をとることにもなっていたのである。 昔の人は「チサトの浜」と詠ったが、現在ではウミガメの産卵する浜辺として有名である。 千里王子の跡地の山手に御所原と呼ばれる所があり、花山法皇が熊野詣での途中、病に臥された枕石と歌の碑もある。 旅の空 夜半の煙と のぼりなば 海士の藻汐火 焚くかとぞ見む 歌の意味は、「もし自分が旅の途中、この千里浜で死にそのまま火葬の煙になって暁の空に立ち上ったとしても、人々は漁師が藻汐火を焚いているのかと見ることだろう」ということである。 千里観音 毒酒にあたった勇士の小栗判官は湯の峰温泉に入湯して難病が回復した。 判官は、我が運命もこれまでと観念して、せめて最後を潔くと決意。 端座して一心に、熊野権現を念じて観音経をとなえ続けた。 このとき馬のいななきが聞こえ、思わず目を開けると、荒波の中を白馬が判官目指して近づいてきた。 判官は白馬の背に乗り移り、陸地に泳ぎ着いた。 泳ぎ着くと同時に馬はいなくなり、あとには一本の流木が残っていた。あまりの不思議さに、これこそ熊野権現の神助の賜と感涙にむせんだ。 判官はこの木に観音像を刻み、祠に納め帰国したという。 流木が白馬の首に見えた事から、誰言うとなく馬頭観音と称えるようになったという。 ありがたや 導き給へ観世音 千里が浜にみがく我が身を <三鍋王子> 「紀南郷導記」で「美しき小石多し」と記された千里の浜は、ウミガメの産卵地としても知られている。 毎年産卵時期になると新聞にその模様を掲載される。 磯山に祀られた、千里観音から北東の千里谷を通り、南部峠を経てJRきのくに線を越えると国道と合流する。 南部川を渡って北に行くと、丹河地蔵堂(銀杏の大木がある)があり、南部王子に着く。 国道からだと南部に入ってすぐの橋を渡り、最初にある信号を左に曲がった突き当たりである。王子社から南部駅は20分ほどである。 中右記に、この日の朝、切目を出発した藤原宗忠の一行は、「南部山を超へ王子社 三鍋王子社は、明治10年12月3日、埴田の須賀神社に合祀、社殿も移された。 しかし、明治42年7月30日、その須賀神社に鹿島神社が合祀、社名は「鹿島神社」と改称された。 したがって、旧三鍋王子社の社殿は現在、鹿島神社の本殿として伝わっている。 境内には、喉の渇きを覚えた小栗判官が飲んだ井戸水とされる「小栗井戸」の井桁だけがあり、保存されている。 喉が渇いて井戸から飲んだだけで、保存されるということは、小栗判官というのはよっぽど人気があったのか。 <芳養王子> 明治4年の神社合祀により、現在の大神社となった。 天仁2年(1109年)10月、藤原宗忠が熊野参詣をしたときの日記「中右記」に、 「南部の野山を過ぎ、早の海辺に出て、河を超え、早王子に参った」 とある。 古道を海沿いに行き、芳養川を渡ると川口に近い右手の丘にこんもりと森に囲まれたところがみえる。 そこが芳養王子である。芳養王子跡になっている大神社は、別に「寄言の宮(よりことのみや)」とも呼ばれている。 それは、 昔斉明天皇の御代のころ、9月9日の前夜、氏の長者の翁が不思議な夢を見た。 夢の中に白衣束帯のものが現れ、「自分はこの地に寄りつく神である。 明朝、浜に出て見よ」と告げた。 翌朝まだ空が明けきらないうちに、言われたとおり翁は芳養川の河口に出てみた。 すると暗い波間に光を放ちながら漂うものがある。 手に取ると、両面の神鏡であった。 これを傍らの小島の上に机を据えて安置した。 この島を「神机島」と呼んだ。 こうして漂着した神を天照大御神として祀ったのが若一王子権現(芳養王子・大神社)の始まりである。 という。 神のお告げによって祀られたので、「寄言の宮」と呼ばれ現在に至っているのである。 芳養王子を過ぎて海岸を行くとすぐ田辺で、いよいよ中辺路街道の分岐となり、奥熊野への歩みとなる。 沿道はむかしながらの漁師町の雰囲気が良く残っている。 <出立王子> 出立王子は、江川大橋バス停の手前を左にはいるとある。 田辺は古くから栄えた街であり、ここで旅の垢を落とすとともに、歓楽街に繰り出したのではなかろうか。 そしてこのあたりから、串本方面に下る大辺路と中辺路に分かれたと思われる。 万葉の歌にも詠まれた出立の浜(江川児童公園付近)で最後の潮垢離をした旅人達は、いよいよ奥熊野への旅の心構えを新たにし歩いたのであろう。 現在はこのあたりは道も開け、商店街になっている。 以前私が訪れた日は曇りであったが、近所のおばあさんがひとかたまりになり、なにやら世間話をしていた。 ![]() 2001年9月16日、この日カルフォルニアから来たジョエルさんと一緒に歩いた。 ジョエルさんは、大阪天神橋の八軒屋から、新宮までを歩き通した。 ジョエルさんが日本に来て、2日目にニューヨークの貿易センタービル事件が起こったのである。 ジョエルさんは宿で涙を流したという。 この日は、私たちのグループ4人と滝尻王子までを歩いた。
闘鶏神社 田辺は熊野街道の大辺路・中辺路 熊野古道の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。 ![]() その要として闘鶏神社がある。 熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいたという。 歴史は、允恭天皇8年(419年)、熊野本宮大社を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。 白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請した。 平安時代末期の熊野別当・湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。 弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。 (弁慶産湯の釜は、三重県紀宝町にもあるが・・) ![]() 『平家物語』などによれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め 熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。 このことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に鬪雞神社を正式な社名とした。 これは有名な話であり、熊野の人はよく話をした。 弁慶が田辺出身と言うことにこの地方の人は特別の感慨を持っている。 社殿は6棟あり、それぞれ以下の神を祀る。 ・西御殿 速玉之男命・事解之男神 ・本殿 伊邪那美命 ・上御殿 伊邪那岐命・天照皇大神・宇賀御魂命 ・中御殿 瓊々杵尊命・鵜草葺不合命・火々出見尊・天之忍穂耳命 ・下御殿 火産霊命・弥都波能売命・稚産霊命・埴山比売命 ・八百萬殿 手力男命・八百万神 この日は熊野古道をチェックして、町に入ったら馬が出てきた。 これはこれはと思って追いかけると、武士のスタイルをした子供が馬に乗り、町の主要な家を廻っていた。 闘鶏神社に行くと露店が建ち並び祭の規模の大きさがわかった。
高山寺 出立王子をでて、会津川沿いに歩いていく。 ![]() このあたりの古道のルートはあまり定かでない。途中にかわいい地蔵さんがある。 高雄大橋の手前を左に少し行くと、聖徳太子が開祖したといわれている高山寺がある。田辺の市街地を一望できる高台にあり、弘法大師が開創したとされているお寺で、『弘法さん』の名で親しまれている。江戸時代建立の多宝塔がある。 ここらあたりは、底の尖った押型文土器「高山寺式土器」や粗製な石斧が発掘され、縄文時代早期の頃、すでに開けており、一帯に集落があったことがわかる。 境内には発掘された土器を形取った碑がある。 他にもここでは、貝殻、鹿の骨、猪の牙など多くの考古資料が発掘されたという。 この寺には、父用明天皇の病気が治るようにと祈って香炉を捧げる聖徳太子の像がある。 鎌倉時代末期(14世紀頃)の作で、豊臣秀吉の紀州攻めの火を危うく逃れたものという。 海の見える墓地には、南方熊楠や植芝盛平の墓があるというが、見ることができなかった。 長沢芦雪の「寒山捨得」や「木造聖徳太子考養之像」等の県指定の文化財が保管されているが時間がないので見ることはできなかった。
<秋津王子跡> 秋津王子は、会津川沿いにあるが、この王子跡も探すのに苦労した。 現在は、新紀日報社屋沿いの道を右に折れて少し行くとあるが、周辺に案内板もなく、見落としてしまう。 近所の人に聞いても知っている人は少なかった。 歴史そのものもあやふやである。 ▲ページトップに戻る
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