熊野古道 堺2
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仁徳天皇陵~南宗寺~石津神社

<仁徳天皇陵>

JR三国ヶ丘駅を降り立つとすぐに仁徳天皇陵がある。仁徳天皇陵
古道はこの御陵の西側を歩く。

仁徳陵(にんとくりょう)古墳は、日本最大の前方後円墳である。
北側の反正陵古墳・南側の履中陵古墳とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれている。
前方部を南に向けた墳丘は、全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33mの規模で、3段に築成されているというが、写真で見る方が全体がわかりやすい。  
周辺を歩いても山のように見えて古墳という感じがしない。
それほど広大である。

説明板には、秀吉がこの御陵内で狩りをしたと書いているがそれも頷ける。
周辺に壕があるが、水は汚く魚の気配はあまりなかった。
これが清水で、絶えず流れていればいうことはないのだが・・・・

しかし、このような墓を作った事実は、当時の日本人パワーが感じられる。
通りすがりに見たが、周辺には遊歩道が設けられている。

この仁徳天皇陵は、巨大古墳がたくさんある百舌鳥古墳群の中にあっても最大で、世界を見ても最大級の王墓の一つである。しかし年代的に天皇と呼称するのはふさわしくなく、最近では「大仙古墳」と一般名詞で呼ぶようである。
全長486mのすごさで、莫大な財力とエネルギーが必要であったことはよく分かる。
これを造ることが出来た政権は、河内の経済力をバックにしていたのであろう。
以前からここを学術調査すれば、古代史の謎もかなりひもとけるのではないかと思っているが、宮内庁管理下であり調査が制限されているという。
したがってこれが本当に天皇陵であるかは確かなものではなく、まだまだ謎の多い古墳である。
邪馬台国の所在が解き明かされつつあるが、ここ大仙古墳も調査によって歴史が覆される発見があるか分からない。

一応周辺をまわったが、ラブホテルあり奇怪な歩道橋ありで、歴史的な施設があるとは思えない周辺の景観である。
案内板も所々にあるがそのどれもがデザインがまちまちである。
京都から、熊野まで同じデザインで統一されて、誰でもわかりやすい案内ができたらこの道はもっとすばらしいものになるのに、といつも思いながら歩いている。
その時々の思いつきで作っているような気がしてならない。
その点昔からある街道分岐点にある石の道標は、千年以上の年を経てもその役目を立派に果たし歩くものをガイドしてくれる。単にきれいなだけの看板のたぐいは、年月とともに色あせ使い物にならなくなる。 

仁徳天皇陵
(森の中にいるように感じる)
仁徳天皇陵
(訪問者には布団太鼓の飾り)
仁徳天皇陵 仁徳天皇陵
仁徳天皇陵 仁徳天皇陵 仁徳天皇陵 仁徳天皇陵
仁徳天皇陵 仁徳天皇陵 仁徳天皇陵

<南宗寺>

交通量の多い雑踏の中を歩いた後、境内にはいるとほっとする。南宗寺
閑静ないい佇まいの境内で、都会のオアシスという感じである。昔はもっと海が近かったのではなかろうかという気がする。
ざわざわとした現代生活の中で、こういうスペースはますます必要になってくるだろう。

南宗寺は三好長慶が建立し、弘治3年(1557)大徳寺第90世大林宗套を開山として落慶したという。
大林宗套は、三好長慶だけでなく、武野紹鴎や千利休にも、大きな影響を与えた名僧で、堺の人々の精神的支柱であったという。南宗寺の説明書には、

「大坂夏の陣においてことごとく灰燼に帰した。当時の住職、沢庵宗彭と堺奉行喜多見若狭守勝重は、南宗寺の復興に尽力し、元和3年(1617)現地内に再建した。昭和20年(1945)の太平洋戦争により、開山堂・実相庵・方丈・庫裏を焼失したが、方丈と実相庵は再建され、現在、大阪府下唯一の臨済宗専門道場として多数の道俗修業の場を提供している。」

とある。
境内には、国の名勝指定枯山水の庭園をはじめ、国指定重要文化財の山門(甘露門)、唐門、仏殿があり、その他にも、千家一門の供養塔、武野紹鴎の碑、三好家一門の墓、津田氏一門の墓、牡丹花肖柏の墓、坐雲亭、茶室実相庵などがある。
枯山水は手入れが悪く、イメージと少しかけ離れている。
おじさんが境内を懇切丁寧に説明してくれた。
こうした語り部がこれから必要になるのだが、みなお年寄りばかりである。 頂いた説明書には、>
『茶道は堺の茶人、武野紹鴎及び千利休等によって完成された。
その「茶禅一味」の精神的基盤は、南宗寺の大林和尚、第二世笑嶺和尚ら歴代の和尚に参禅することによって確立された。
現在、南宗寺には紹鴎の墓碑、利休及び三千家一門の墓碑があり、また利休好みの茶室 実相庵、紹鴎遺愛の「六地蔵石灯籠」、利休遺愛の「向泉寺伝来袈裟形手水鉢」がある。』
とあり、ここが茶道の元であることが伺いしれる。
仏殿は大雄宝殿ともいわれ、それほど大きくないがいい建物である。
中央に釈迦如来、左右に文殊、普賢の両菩薩が安置されている。
ここの仏殿の特徴の一つは天井の、狩野信政筆の「八方睨みの龍」である。
どこから見てもにらんでいるという龍の絵であるが、同じ狩野派の丸山応挙が描いた、串本無量寺の龍のほうが迫力を感じる。この仏殿は、1652年の建立ということである。

実はここには家康の墓がある。大阪夏の陣の際、茶臼山における激戦に敗れた家康は、逃げる途中槍に突かれて死んでしまった。そしてここに祀られたという伝説がある。その裏付けとして、二代将軍秀忠、三代将軍家光が相次いでここに参詣しているという。瓦には徳川家の「葵」の紋もありたくさんの人の寄贈により、徳川家康の墓碑が新たに建てられている。なお、南宗寺では、家康を槍で突いたのは後藤又兵衛という話も伝わっている。
2014年6月7日に再訪した。

南宗寺
南宗寺
南宗寺 
南宗寺
途中にあるお大師さん?)
南宗寺
(境内を熱心に説明してくれた)
南宗寺 南宗寺
(写真は千家一門の墓)
南宗寺
(さりげなくある草鞋) 
南宗寺
(枯山水の前で一休み)
南宗寺
(禅堂入り口)
南宗寺
(竜がこちらを見ている) 
  南宗寺
(古道らしい雰囲気) 
南宗寺  

<石津神社>

南宗寺の西端をとおり、山の口橋をわたり、古道を南に歩くと石津神社がある。石津神社
南宗寺から、石津神社までの道は新旧の町並みが混在して続く。
南宗寺からでてすぐには、長屋があり、いかにも日本らしい風情がある。
今はコンクリートの建物が多くなり、こうした長屋形式の建物はなくなってきている。
日本古来の景色はやはりいい。
堺はまだ路面電車もあり、裏道にはこうした日本らしい風情のある道が残っている。

郵便局を過ぎてすぐに、古道は、阪神高速15号堺線と交差する。
国道26号線も高速の下を走るが、古道は否応なく歩道橋になってしまう。
古道は新しい道にその機能を譲り、忘れ去られてしまう。
ヨーロッパのように、古道を古道らしく保存し、新しい道との共存は不可能なのだろうか?
狭い日本であるからこそ、そうした棲み分けをきちんとする必要があるように思う。
紀南の古道を歩いた後、こうして都市部の古道を歩いてみて、願いに近い思いがわき上がる。
古さと新しさを兼ね備え、バランスをとっていく、それは行政任せではなく住民も真剣に考えなければならない。
そうしたこだわりが、新しい文化を創り、歴史を未来にきちんと伝えていくことができる。
古墳建築の首長として活躍した石津連の祖神、天之菩卑能命(あめのほひのみこと:天穂日命)と中祖野見宿禰とともに、戎神の蛭子神を祀る。 明治以前はオオコソ社といい、石津太神社とともに古い。
入り口の右側に、大きなクスノキがあり、樹齢1000年という立て札がある。
そのクスノキは、すでに切られた枝もあるが、幹の表面の木肌は1000年の風格があり、まわりを圧倒している。
境内には藁を編んだ大きな輪くぐりがあり、「夏越しの大祓」と書いてある。
夏の無病息災を祈るのであろうか。


石津神社 石津神社 石津神社
(きれいにペイントされた路面電車
石津神社
(新旧道路の交差点)
石津神社
(石津神社本殿)
石津神社
(樹齢1000年の大楠)

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