|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
四天王寺~天王寺界隈 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<四天王寺> 聖徳太子が建立した日本最古の官寺と伝わる四天王寺。 中でも五重塔は熊野詣でをする人たちにとって、来世救済、極楽浄土のこの寺のシンボルであった。 又、年中行事も永い歴史を有する寺院にふさわしく、「どやどや」「聖霊会」「四天王寺ワッソ」など四季を通して行われているというが、それらのイベントはまだ見たことはない。 一度それらを見てみたいと思う。 写真の、西門石造りの鳥居は永仁2年(1294年)に造られたというが、威風堂々としている。 聖徳太子創建の我が国最古の官寺であるが、大戦で消失し、鉄筋コンクリートで再建されている。 聖徳太子建立のせいか方形の伽藍の柱は、エンタシス様式で中央が太い柱としている。 たくさんの人がお参りし、にぎやかである。 わたしが訪れたときは夕暮れ時で、五重塔が夕日に輝いてきれいであった。 境内では、テレビドラマ「部長刑事」のロケが行われており、京本正樹さんと、杉本綾さんが撮影をしていた。 体の悪いところがあれば、賓頭盧さんをなでてから自分の悪いところをなでると直ると言うことで、わたしは頭をなでて自分の頭をなでた。 見ればほとんどの人が、やはり真っ先に頭をなでていた。わたしはまだご利益はなく、依然頭がさえないままである。 ここでは、毎月弘法市が開かれるが、2回目に訪れた折りは19日であったので、市の準備で賑わっていた。京都東寺の弘法市はよく行くが、ここ四天王寺も一度来てみたいと思う.。 五重塔は姿が美しい。 境内で白い玉砂利を見ていると、僧侶や熊野詣での人が行き来している光景を想像してしまう。 慈鎮・法然上人・後白河法皇・藤原定家など様々な人々がここに参詣している。 これが京都の東寺の5重の塔のように昔のままであったらなおすばらしいと思うがこれは仕方がない。 こうした大きなお寺を見ていると、往時の景色を見てみたいと思う。 広大な境内をたくさんの人が往き来していただろうと思うとワクワクしてくる。 四天王寺は、聖徳太子が創建したと言われる。現代でも各節季にはたくさんの参詣客が訪れる。 平安時代に始まる阿弥陀信仰とも関わりが深いという。 そしてここの西門は有名で、古代の伽藍配置を思い起こすのである。創建は古く飛鳥時代で、「日本書紀」や古い縁起物では物部守屋との合戦に当たり、ここ四天王寺に戦勝を基盤したこと、そして荒陵に四天王寺を建てたと言うことがかかれてある。 創建は、現在の地ではなく、玉造の東の岸に建てられ後に現在の場所に移転したという異説もある。 発掘調査では、南門・中門・塔・金堂・講堂が一直線に建てられていたことがわかった。 しかし当時すべて完成はしておらず、講堂や中門、南門、回廊などは完成がかなり遅れたという。 さすが我が国の最古の寺であり、境内は古代の状況を今に伝えている。
<堀越神社> 四天王寺から、天王寺駅方面に歩いて5分程で堀越神社につく。 境内には「窪津王子祠」が祀られている。 ここ堀越神社は、第33代推古天皇の時代に聖徳太子が、太子の叔父さんの、第32代崇峻天皇の徳を偲んで、ここ茶臼山に、四天王寺建立と同時に創建したところという。 古くは、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、堀越という名が付けられたといわれている。 大阪でも非常に景色のいいところだったようで、今はその面影もない。 またここは、「一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えがあることを境内の掲示板で知った。 また、男の四十二才の厄年には、東向きの神社にお参りすると厄除けになると言われており、毎年多くの方がお参りするという。熊野神社「三熊野大神」を合祀している。 「熊野第一王子之宮」 平安時代「蟻の熊野詣」といわれるほどに賑わった熊野詣では目的の熊野三山遙拝野間絵に熊野権現の分霊を祀った九十九の王子社の巡拝しながらたどっていきます。京の都から船で淀川を下り、上町台地へ上陸する天満の港に「窪津王子」がありました。 ここが熊野の出発点で九十九王子の第一王子窪津王子に参拝してお祓いを受けた後、熊野詣でに出発したといわれています。 この「窪津王子」はその後、四天王寺の正門鳥居近くの「熊野神社」に鎮座していたと伝えられていますが、後に堀越神社に合祀され「熊野第一王子之宮」として現在に至ります。 また熊野権現の神使は八咫烏(ヤタガラス)、三本の足を持つ烏として描かれています。日本サッカー協会のシンボルマークでお馴染みですが、神武天皇のご東征を道案内したり、その功績は数多く伝えられています。春の例祭の日(四月第三日曜日)に熊野社花祭が催されます。
<天王寺駅界隈> 古道は、JR天王寺駅から、阪堺電軌上町線の線路敷きの阿倍野街道に入る。 和歌山の南端で育ったものにとって、この天王寺駅というのは特別の思い入れがある。 わたしの小学生の頃は、串本からだと7時間くらいかかっていた。 そんな長い時間電車に揺られ、降り立つ駅が天王寺駅であった。 そして、都会にきたのを実感し、胸がわくわくし出すのも、この天王寺駅であった。 昔と違うのは、押し売り的な路上販売が減り、売り手も買い手もファッショナブルなことである。演奏する若者がいた。携帯電話をする若者がいる。演奏を聴く若者もいる。 それらがバラバラなようで、なぜか同じものに見えてしまう。 それを、個性がないと感じるのは、わたしだけか? ひと頃のブームであった、ガングロの若者が一気に減った。 人が見ていようが、見ていまいがお構いなく演奏する路上音楽家。 少し昔は、こういう路上でのパフォーマンスは年寄りの物売りが多かったが、今は少しおしゃれになっている。 こうしたパフォーマンスの中からいい才能が生まれてくれたらと思う。 移動できる「家」もある。 このスタイルは、今も昔もそう変わらないが、そのわりには何となく家財道具が多い気がする。 大阪の熊野古道(大阪では『熊野かいどう』という表現である)は、懐かしい景色に出くわす。 路面電車もそうであるし、周辺の町並みが街道筋にふさわしく昔と今とが微妙にマッチしている。 都市の町並みの一つの典型のような気がする。 むろんかなりビル化はされているが、何となく調和している。 そんな街道は、路面電車の道並んで南に進む。 松虫通の交差点手前に「熊野かいどう」の碑があり、そこからはポイント、ポイントにかいどうを説明する碑が建つ。また、路面もタイル張りとなり、歩きやすくわかりやすい。 大都会で歴史街道を残すのは難しいとは思うが、残そうとする意志さえあれば、このようにきちんと現在と調和した形で残すことができるという見本のような道である。 以前は、街道の案内マップ通りに歩いたので今度は反対側を行こうと思い、阪神高速の下の交差点で右に折れ、わたったところですぐ左に折れて歩いた。 天王寺側から言うと、電車道の右側を歩いた。 ところが、この道が本筋らしく、「熊野かいどう」の碑が2つもあった。 パンフレットを変更してもらわないと、左側を歩いてしまい、これらの碑を知らずにすぎてしまう。 途中、お腹が減ったので何か食べようとさがしていると、「お粥セット」という看板があり、それに惹かれ入った。 店内にはいかにも街道筋のお店らしく、手書きの歴史パンフレットなどがおかれている。 メニューはヘルシーなものばかりで、私は五穀米定食を頼んだ。おいしかった。 ここを歩くときは休憩に是非どうぞ。おすすめ。
▲ページトップに戻る
|