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楠大明神~高津神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||
<楠大明神> 古道は、榎木大明神を過ぎて左に曲がる。国道308号線と並行している。 谷町筋と交差している次の交差点に、道標があり古道の曲がり角を教えてくれる。 上汐筋である。 このあたりは、マンションなどの新しい建物とクラシックな長屋が共存する。 近松門左衛門の墓の近くに、昔の郡戸王子があったという。 しかし道がわからなくて、道行く人に聞いた。 小太りなおじいさんで、元気な声で、 「この坂を少し登って行くと少し広い道に出るから、そこを右に曲がって大通りの方に行くと道の真ん中に大きな楠があって、その下に楠大明神がある。その近くが近松門左衛門の墓や。でもいっても何にもないで」 「ありがとうございます。いや、今日は熊野古道を歩いてるんですよ」 「おう、若い人はええなー、元気ある。わしらも3回ほど歩いたで。わしゃもう85や」 そういいながら自転車で走り去った。 85の人から見ると、私はまだ若いことになる。 とても85歳とは思えない元気なおじいさんであった。 おじいさんの案内通りに、道の真ん中に、小さな杜がある。楠大明神である。 楠の木の下には小さな祠があった。 ここ空堀周辺は、大阪独自の伝統的な長屋が建ち並んでいる。 私の好きな風景が展開している。 なぜ空堀というかと言えば、秀吉が築造した大阪三の丸の外堀「南総構堀」で、水がなかったことからこう呼ばれる。奇跡的に戦災を免れたため、昔のままの大阪が残ったのである。 秀吉は、徳川勢の侵入を防ぐために10m近くの深さでから堀をほったという。 最後には家康の策略にかかり、ここを埋め立てるということを条件に和睦をしたが、それにより家康勢が攻め込んできて結局は落城したのである。 熊野詣での交通路の要衝であったため、御祓筋などの往時をしのばせる地名もある。 大きい道路から一筋中にはいると古い棟割り長屋が並び日本人が忘れかけているむくもりのある生活文化がうかがえる。 小さな坂道や階段が多いのもこの界隈の特徴である。 大阪再生をするのであれば、こうした貴重な町並みをどう残すかが大きなカギを握るのではないだろうか。 伝統と新しさ。それをうまく残すことが観光都市大阪の役割でもある。 上の写真でも電柱がなければいい風景である。 手前の長屋と後ろのビルが違和感なく調和していないだろうか。それを電柱がぶちこわしている。 近松門左衛門のお墓は、ここを出てすぐ左に曲がるとある。 道は再び谷町筋となる。 榎木大明神といい、この楠大明神といい、区画整理などで道をつけるとき、ここはどうしても撤去できなかったのだろう。 元の景色を見たい。古い町屋が並び境内もあり、いい景色ではなかったろうか。 ところどころにあった姿のいい町屋でほっとしていたが、ビルの谷間に、こうしたタイムスリップしたような景色を見るとほっとする。そう思うと、これだけでも残っていることをよしとしなければならないのか。 近代化とはこういうことなのだろうか?ヨーロッパは結構残っている。戦災で壊滅的な被害を受けても昔を復活させて復興している。そういうのを見聞きするとうらやましい。
<近松門左衛門のお墓> このルートを数年ぶりに歩いたが、近松門左衛門近くの案内標識が変わっていた。 おしゃれになったが、古道のルートは表示されていない。歴史の散歩道といいながら、道に関する表示がない。おかしい。道に迷わない標識を建てて欲しい。 目的地までどれくらいかどちらに行けばいいのか分かりづらいのである。 このあたりはこだわってほしいところである。古道をたどるにはどうすればいいか、何度行ってもわからないのである。 楠大明神からすぐに、近松門左衛門の墓がある。 この近くに、昔の郡戸王子があったという。 近松門左衛門の墓は、ビルとビルの間にあるため、うっかりすると見過ごす。 ビルの谷間にある文豪の墓は、何となく味気ない。せめて後ろに樹木が欲しい。これは、センスの問題である。 いかに歴史を留めるか、真剣に考えていかなければならない <高津神社> 近松門左衛門のお墓から谷町筋を歩いて2つ目の信号を右折し、200mほど歩くと高津神社がある。 この神社は、今は跡形もない郡戸王子を合祀しているところだという。 神社のまわりは公園で、親子連れが3組ほど遊んでいた。 少なくなった都会の緑が、ここでは予想以上にあった。 その中で、ビニールの家を建てている人がいた。 境内へは階段を上っていく。 祭神は仁徳天皇ということであるが、それらしき記述を見つけることができなかった。 境内への階段をすぐ右に休憩所のようなスペースがあり、サラリーマンらしき人と、ご老人が4人ほど椅子の上に寝ころんで休憩していた。 中央に北前船の精巧な模型がある。 高津神社を見て、再び古道に戻る。古道は、谷町筋と並行して四天王寺へと続いている。 このあたりは、寺町というだけあって、お寺ばかりである。それらを見ながら感じたことは、やはりここは、戦争の時などに傭兵を集めるためのスペースではなかったろうかということである。非常の際は傭兵駐屯地となったと思うがどうだろうか? 途中で四つ角の角に、本来の道標がある。 経年劣化で字はかなり薄れてはいるが、四面共に道を案内しており、現在の道標よりはるかによくわかる。 道標の必要な機能は、旅人が迷わないためのものである。 この古い道標は四つ角全ての方向を指しているので、ここまで歩いてきたなかのもので、一番よくわかる。 道標や案内板を作った人は、これは勝手な想像であるが、実際に歩いたことのない人だと思う。 現在のおしゃれな道標は機能を果たしていない。 榎木大明神から、1時間ほど歩くと四天王寺に着く。
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