|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
阿倍晴明神社~住吉界隈 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<阿部晴明神社> 「熊野かいどう」の案内碑に導かれて、阿倍野筋の一筋西の南に延びる道に入り、しばらく行くと平安中期に活躍した、陰陽師安倍晴明の生誕とされる安倍晴明神社がある。 神社でいただいたパンフレットには、安倍晴明神社は晴明没後2年の、寛弘4年の創建と伝えられ、晴明公の子孫と称する安田家が代々社家として奉仕し、江戸時代には大社の一つとして、大坂城代更迭の際は特に当社に参拝され、古文書拝観をしたくらいに格式のある神社であったという。 幕末に社家の没落で衰退し、石碑と小祠だけとなったが明治末に復興が計画され、大正10年安倍王子神社の末社として復興が認可され、大正14年現在の社殿となったとある。 境内は夕暮れも手伝って静かでほの暗く、女性がひとり本殿前で手を合わせ拝んでいた。 都市の真ん中でのこうしたスペースはうれしい。 平成2004年10月にバイクで再びここを訪れた。時間がないのでバイクで熊野街道を走ろうと思った。 ところが、一方通行であった。交通違反をして神社に入った。 社務所で朱印をお願いすると、 「書いているのがあるので、それでもいいですか?」と聞かれた。 朱印帳と同じ大きさの半紙に書かれていた。 出来れば朱印帳に書いて欲しいが仕方がない。 2008年3月に、三度目の参拝をしたが、以前にはなかった銅像があった。 後ろの碑文を見ると、安倍晴明公1000年祭があり、それを機会に造ったようである。 なかなかリアルできれいな銅像である。足下の白い狐を撫でると、何か御利益があるということである。 私も一撫でした。 謎に包まれた誕生 安倍晴明 安倍晴明については、この古道歩きをするまでは全く知識を持ち合わせていなかった。 生まれた場所も、大阪説、讃岐説、茨城説とあり、最も有力なのが、大阪ということである。 『葛乃葉(くずのは)伝説』によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされているので、やはり大阪かなとは思うが、父親と狐の出生の伝説を知るといささか信じがたくなる。 狐は様々な物語で、霊力を持った動物として崇められており、白狐の母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになる。 安倍晴明神社に伝わる『安倍晴明宮御社伝書』には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘四年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されているという。 安倍晴明は、平安時代の天才陰陽師として名高いのである。 それほど重要視された、陰陽師とはなんだろうかと疑問を持ったが、神道として日本の民俗宗教で天然自然の森羅万象に、霊的なものを認めて信仰するアニミズムや自然崇拝としての民俗宗教からきた、特殊な能力を持った人といえば、分かりやすいのか? 陰陽師には、中国伝来の陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)によって天体を観測したり暦を作成する自然科学者的側面と、様々な方法で吉凶を占い、自在に神を操る呪術師的な側面がある。 陰陽五行思想については、いにしえから現代に至るまで息づいている思想で、陰陽思想と五行思想が融合したものが、陰陽五行思想であるという。 初めに生まれた天地が交感・交合を繰り返した結果として、天上では、太陽(日)と、太陰(月)、それに木星・火星・土星・金星・水星の五惑星をはじめとして、数々の星が誕生する。 一方地上では、同じくして、木火土金水の五元素が生じていく。 この五元素の輪廻や交感を五行と言うのである。 つまり木火土金水の「五」元素が輪廻し様々な作用を「行」うという事である。 5元素の周りに、12支を割り振ったがそれが干支の原点といわれる。 その思想を仕切っていたのが安倍晴明なのである。 方角の吉凶(鬼門など)や病気にかかればなぜかかるのかを占い、お払いをして直した。 平安時代には、陰陽師は正式な官僚として扱われ、天皇に対してもかなりの影響力があったという。 自然の森羅万象をよく理解し、それをふまえた上で人生相談をしたのではなかろうか。 私の乏しい知識の中での解釈では、自然科学者的な立場で、力を発揮しその先見性が予言力があると信じられ、神的に思われたであろう。こうした人は、善し悪しは別にして現在でも世界中にいる。 たまに世間をにぎわす悪いやつもいる。 豊作や大漁を祈る気持ちで、天候などの予測や行動の方向付けを、安倍晴明などの陰陽師に聞いたのであろう。 またそれの方が説明しやすい。狐の話は没後に作られたのではなかろうか 日本ではいまだにその思想が受け継がれ、干支や方角についてはこだわる人が多い。
<阿部王子神社> 安倍晴明神社のすぐ南に、大阪府内に残る唯一の王子社、阿倍王子神社がある。 阿倍王子神社は、パンフレットによれば、仁徳天皇によって創建され、平安時代の初期天長3年(826年)弘法大師が、淳和天皇の勅命で当社に参り、疫難退散の祈祷をして成功し、痾免寺の勅額を賜ったという。 阿倍野は古代の豪族阿倍氏の居たところで、奈良時代には氏寺阿倍寺があり、「阿倍寺千軒坊」と伝わるほどの大寺であったという。 阿倍氏がよそに移住し、さらに阿倍寺も四天王寺に併合される中、熊野信仰が盛んになり熊野街道の道筋に、この寺があったので熊野王子となった。 ちょうど四天王寺と住吉大社の中間にあり、王子社にふさわしい場所であった。 現在もその面影を残して、都会の真ん中にありながら木が生い茂り、いい雰囲気を醸し出している。 ここでも女性がお参りをし、その後ろには若い二人連れの女性がお参りの順番を待っていた。 ここ阿部王子神社周辺は、大阪とは思えない雰囲気がある。 田舎にもないような時間が止まったような雰囲気がある。 その辺が好きである。 この景色が、これまで以上に大事にされるとき、日本は再生するのではないかと期待するのである。 日本人の良さは、路地裏文化が高度に発達し、微妙なバランスで向上し続けることである。 勤勉と優しさと、そして世界に誇れる手業が、路地裏や長屋の続くところにある。 安倍晴明神社からは、ほんの少しだが、もう交通違反は出来ないので、いったん戻り、大通りに出て正面から、神社に入った。 歩きできた折りとは違うストレスを感じながら、朱印をもらい、前回気がつかなかった、三本足のヤタガラスなどを写真に撮った。境内では、地元のグループとおぼしき熟年の集団がいた。 ここは、大阪に残る王子跡である。 境内にはヤタガラスの彫像があり、熊野に続く雰囲気が濃密である。 ここ阿部王子神社の正面には、アーケードの商店街があった。 帰りに立ち寄ったが、ここも日曜日なのに閑散としていた。閉まっている店も多かった。 買い物客もお年寄りが多く、店の品揃えも、お年寄り向きのものが多かった。お年寄りにとっては、こうしたお店の方が買いやすいと思う。わたしも、こうしたところで買う方が落ち着く感じがする。 ただし、それはお菓子や食料品を買うときであって、私も、遊びの道具や衣類を買う場合はやはり、デパートやアウトレットに行く。こうした商店街のお店は、売り場面積が少し狭いので、品揃えが十分でなく、お客の選択が限られてくるからである。このあたりが、こうした昔ながらのアーケード型商店街がお客集めに苦戦している原因かもしれない。また周辺には駐車場が少なく、ここに買いに来るためにはどうしようと考えた。 古道歩きとは直接関係ないが、最近の殺伐としたニュース等を見聞きするとき、こうした商店街の復活が必要なのではないだろうかと、いつも思う。
<住吉界隈> 街道は、阿倍王子をでて再び上町線の線路敷きの広い道をさらに南へと下る。 。周辺の景色は、本来の日本のほのぼのとした、何ともいえない豊かな気持ちにさせる街路が続く。 熊野古道の街道筋の雰囲気が今も残っている。 途中お寺や経塚などがあり、それぞれに掲示板などがある。 先日、IWAOKAさんからのメールで、屋根に灯籠のあるお店屋さんは、私はお菓子屋さんと思っていたのですが、お味噌屋さんだとご指摘がありました。 そしてページを紹介して頂きましたが、それによると、「住乃江味噌」でよく知られているお味噌やさんで、池田屋本舗といい、創業は元禄年間で老舗中の老舗ということです。元は酒屋だったそうですが、味噌つくりを始めたのは、当主・池田幹隆さんの祖父・池田甚兵衛さんの代からということです。当日はこの界隈はお休みの店が多く、残念でしたが、お知らせを頂きましたので、もう一度この界隈をウォッチングしてみたいと思います。 古い町並みはむしろ都市の方に残っている感じです。 この町並みが、路面電車とともに、ずっと残っていって欲しいと思います。
▲ページトップに戻る
|