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熊野古道 京都   

熊野古道の始まりは京都から   

熊野古道といえば、畿内から紀州・熊野三山へと通じる由緒ある参詣道です。
熊野詣は淀川を下って八軒家から上陸し、ここから陸路で熊野に向かいます。

ギャラリー

八軒家船着場
熊野詣での陸路は、天満橋からである。
京都から船で下ってきてここ天満橋でおり、最初に浜の後方の窪津王子に詣ったあと、陸路を目的の熊野を目指して歩き始めるのである。この船着き場跡は、当時は大きな浜になっており、人の行き来も多く交易の場としても重要であったと思われる。三十石船が大きな帆を揚げてこの浜についた。
いま、その浜が残っていれば、市民の憩いの場としても絶好の場となったであろう。今はコンクリートの護岸が、川に人が入るのを拒んでいる。周辺は交通量が多く活気がある。今も昔もこの辺は商売の街である。

京阪天満橋駅にあるOMMビルからすぐのところに船着き場跡を示す碑が、駅側道向かいの、昆布やさんの横にひっそりとある。うっかりすると見過ごす。往時はこの辺までが浜だったのであろう。古道はこの碑の前を西に歩いていく。

熊野街道の陸路はここからが始まりである。
熊野詣での人々は、船から降り大阪を感じ、そして遙か熊野の地に思いを馳せたであろう。藤原定家もここから上陸している。藤原為房も同じようにここから上陸している。
ここ八軒家から南へ。北大江、中大江、南大江と3つの公園を過ぎて長堀通りに出る。
碑からすぐに交差点があり、その角に熊野街道を示す立派な案内がある。古道はその案内板前の御祓い筋を南に続いている。
坐摩神社行宮は、御祓筋西の次の筋にあるのでいったんそこを参拝して再び御祓筋に戻るとわかりやすい。
八軒家船着場跡 熊野古道 八軒家
八軒家船着場跡
(2002年)
八軒家船着場跡
(2010年。ブルーシートがなくなった)
八軒家船着場跡
(川の駅の前に立つ八軒家の案内板。階段があって川に降りられる。ここもそうしてほしかった)
 八軒家船着場跡
(付近の超高層ビル群)
八軒家船着場跡
(建物は昔に似せている。昔は、向こうに山が見えていた)
  先日八軒家浜の整備ができて、水上バスが運行され出した。なかなかいい施設だが、カヌー等を上げられる雰囲気ではない。少し残念である。
浜だから、水と戯れるような施設が欲しいと思うのだが、最近の日本人は、危険の度合いを知らない人が増えたから、行政としてもリスクは避けたいだろう。
親水性護岸がどうしても欲しい。
ここはまだいろいろなイベントや施設の建設が予定されているので、期待したい。
ストリートパフォーマンスなどあれば楽しいと思う。
八軒家船着場跡 八軒家船着場跡
  この八軒家という地名は、どういう由来であるのか不思議である。というのが、和歌山の川縁にも同じ八軒家という地名がある。川縁の、船着き場あとはそう呼ぶのであろうか?
八軒家ということでこういう川縁には、8軒が軒を連ねる何らかの商売があったのだろうか?
歴史研究というのは、こうした疑問を解き明かしていかなければならないので、時間もかかるし大変だろうと思う。
わたしの場合はとりあえず、似たような地形の所に同じ八軒屋という地名が存在しているという事を発見し、単に疑問を持つだけで終わってしまう。もっと深くつっこめばおもしろい事実も浮かんでくるのだろうけれど・・
歴史を追究するには根気がいる。
後で調べたことで分かったのは、八軒家の名の由来は天明に遡り、天明二年十一月六日、江戸幕府が九人の定飛脚問屋に官許の肩書きを許し、後に八軒の定飛脚問屋の株となり、明治五年三月まで続いたらしい。
天神橋南詰めのこの地を八軒家と呼ぶのは、この定飛脚問屋が店鋪を連ねていたからということである。
ということは、藤原定家の頃は、まだ八軒家という呼び名はなかったことになる。
2008年2月に数年ぶりで、ここ天満橋から天王寺までを歩いた。
景色はほとんど変わっていなかったが、道筋を忘れてしまい少し迷った。

大阪の歴史を見ると、大阪北のほぼ全域が海だったようである。
ここ八軒家も当然海だった。
ここ天満橋からそう遠くない森ノ宮で西日本最大の貝塚が発見されたという。
したがって海岸線は森ノ宮あたりということになる。
そして約8000年前には縄文海伸による海水面の上昇で、大阪城のある上町台地内側の河内平野へと海水が流入し、河内湾となった。大阪の開発は、上町台地からその周辺へと広がっていったようである。

時代は少し下って南北朝時代。
当時天満橋と難波橋の間くらいに渡辺橋があり、反鎌倉幕府の楠木正成が幕府軍を攻め、橋から川へ多くの敵兵を追い落とした武勇伝があるが、息子正行もこの渡辺橋で敵を追い落としたが、このとき大川に落ちた500名ほどの敵を助け上げ、馬や鎧まで与えて送り返したという。
武士の情けに恩義を感じた武士の中には後の四条畷の合戦で正行軍に合流し、討ち死にしたものもいるという。
「太平記」に記録がある。