熊野古道 和泉1
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信田森神社~聖神社

<信田森神社>

「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」

ここ信太山神社は、陰陽師、阿倍清明(安倍清明とも書く)の出生にまつわる「葛の葉姫」の伝説の所縁の土地である。
古道ルートとは少し外れるが、道沿いにないだけで、歩く人はここに立ち寄ったことは間違いない。

神社はJR北信太駅から、大きな鳥居をいくつかくぐり、数分のところにある。
神社に着くと石作りの鳥居が迎えてくれる。門前には神社の狛犬に変わって一対のきつねがいる。

入り口の掲示板には、

葛葉稲荷神社の伝説

 約千年余り前、今の大阪市阿倍野の里に阿部保名が住んでいた。
 父は豪族であったが人にだまされ所領を没収されたので、保名は家の再興を願い,当地信田森葛葉稲荷に日参していた。
 ある日のこと、数人の狩人に追われた一匹の白狐を助けた。そのとき、保名は手きずを受けその場に倒れた。
 白狐は葛の葉という女性に化け、保名を介抱して家まで送り届けた。それから数日後、葛の葉は保名を見舞い、やがて互いの心が通じ合い、妻になり童子丸という子供をもうけた。
その子が五才の時、正体が分かり、
  「恋しくば 尋ねきて見よ 和泉なる
           信田の森の うらみ葛の葉」
の一首を障子に書き残して信田の森へ帰ったといい伝えられる。
 この葛葉伝説にまつわる狐がおまつりされているのがこの神社で今も人々の信仰を集めている。

              和泉市 
              和泉産業観光振興会
とある。
境内に入るとあちらこちらにいろいろな碑が立っている。
まずは芭蕉の句碑、

「葛の葉のおもて見せけり今朝の霜」

平安の和泉式部は、

「秋風のすこし吹くとも葛の葉の
    うらみがほにはみえじととぞおもふ」


葛の葉のについては、葛の葉はふつう3枚が一組であるが、歌のように風に吹かれて葉裏が見えるところから、「うら(裏)」あるいは「恨み(裏見)」にかかる序詞として「葛の葉」がつかわれていたということである。
3枚の葉のうち1枚が葉裏を見せている文字通りの「うらみ葛の葉」として神社の紋章にも使われている。

葛の葉稲荷には重要な植物がある。
それは御神樹になっている樹齢2000年を超える大楠で、社殿の南側にそびえている。
幹のまわりは11m、高さは21mあり、根元より二つに別れているので夫婦楠とも呼ばれている。
やはり、花山上皇が熊野詣での折、「千枝のクス」と名付けたようで、新しい芽が出てからは700年ほどの樹齢と書いているが、いずれにしろ神木にふさわしい歴史と大きさをしている。
境内には、葛の葉姫に化けた白狐が自らの姿を写して見たと伝えられる「姿見の井戸」がある。
葛の葉が無事にこの森に帰り着いたことから、「無事帰る」というので交通安全祈願にも人が訪れるという。
境内にはとにかくたくさんの石碑や社そして祠がある。
そのことは、この神社が古来から、人々の心のよりどころとして存在していたからだろう。
しかし神様が余りに多すぎて書ききれないので省いた。


(葛の葉の紋章)

(和泉式部歌碑)   

(松尾芭蕉歌碑)
     
(姿見の井戸。自分が見える) 

(拝殿への道)  
 
 

<聖神社>

等乃伎神社をでて次の聖神社に向かったが、道に迷った。このあたりはあちこちで道路工事や宅地造成があり、地形が変わっている。そのためガイドブックに載っていないところも出てくる。
田圃もあちこちにあるが、造成地の中にぽつんとあったり、団地の中のごく狭い範囲であったりする。小川があるが汚い水が流れ、生物の棲んでいる気配が全くない。
昔はドジョウやフナが泳いでいたと思うが、もはや汚水を下流に送るための単なる水路に変わってしまっている。
しかし、聖神社が近くなる頃から、いかにも古い街道筋らしい風情のある町並みが続く。やはりほっとする。
お寺かと見まがうような門構えのお家もある。

2010年2月にも同じように道に迷った。
景色が全然違ってしまっていたのである。
以前歩いたときは、お寺かと思うようなお家と書いたが、それらがほとんどなくなり、高層アパートが建ち並んでいた。

熊野古道の大阪ルートを昨年から歩き直しているが、大鳥神社から南向きのルートの変貌ぶりが激しい。
区画整理が進んでいて、来年歩くとすればまたかなり違ったものになっていると思う。
そして古い町家がどんどん消えて行ってそして熊野古道そのものも忘れられる感じがしてならない。
各自治体によってこうした歴史的なものに対する取り組みに、温度差があるのがよくわかる。

和泉市に入ると案内板などが極端に少なく分かりづらくなる。
下の写真のようにわかりにくいところには案内がほしいのだが何もない。
小さくていいから、どちらへ行けと書いた道標がほしい。
歩くものにとって、迷わないように地図と首っ引きで歩かなければならない。
せっかく熊野古道が世界遺産になっているのであるから、京都から熊野まで統一した道しるべを作ってくれたら日本の文化遺産への関心が高いと、外国からの人にもアピールできるのだが、現状はきわめて寒い。

道筋に中央寺がある。
小振りだがきれいなお寺である。いろいろなお願いを聞いてくれるらしく、表にはお礼の手紙などを貼っていた。
聖神社の大鳥居は、この寺からまもなくである。
聖神社 聖神社
(黄金塚古墳を過ぎて右折)
聖神社
(新しい道路ができている)
聖神社
(この畳屋さんの前を左に行く)
聖神社
2010年2月、水はさらに汚く)
聖神社
(黄金塚古墳が左手に見える)
聖神社
(向こうの細い道がルート)
聖神社
(これではどちらに行けばいいのか)
聖神社
聖神社 聖神社

聖神社へは、大鳥居をくぐり、なだらかな坂道を1kmほどのぼる。 聖神社
創建は天武天皇の白鳳三年(675年)秋八月十五日で、永く国家鎮護の神として、信太首(おびと)が斎き祀ったものであり、信太聖神、又は信太明神とも云う。
かつては「信田の森」とよばれる深い森林地帯であったという。
森や林だらけの当時にあって、森として名前まで付くと言うことは、想像以上の森林地帯であったことがうかがえる。いま残っていれば、素晴らしい公園になっているであろう。
今でも、神社のまわりはきれいな森林となっており、往事の面影を残している。
近くには、景初三年銘のある画文帯神獣鏡出土の黄金塚古墳や、池上曾根遺跡など重要な史跡がある。
パンフレットには、

「当社は泉州五社(大鳥、泉穴師、聖、積川、日根)の三の宮である。
現在の本殿は、慶長9年(1604年)に豊臣家によって造営されたもので、国の重要文化財に指定されている。祭神の聖神は、素盞嗚尊の子神の大年神が伊怒姫を娶って生んだ、大国御魂神、韓神、曽富理神、向日神、聖神の末子である。
「日知り」の神、すなわち暦の神である。
半島系渡来氏族の、陰陽師が信仰していた神である。
陰陽博士として、名高い安倍晴明の、誕生に絡んだ伝説が伝えられている。
今は、葛ノ葉稲荷神社(信太の森神社)の縁起の方が有名になっている。」


などとある。 例祭   5月10日、10月10日

聖神社
(一の鳥居(2010年2月)) 
聖神社 聖神社 聖神社

このあたりは区画整理がされており、昔の面影をほとんどとどめていなかった。
やむを得ないかもしれないが、少し寂しい。
これだけやるのなら、いっそ無電柱化を実現してほしかった。
電柱がなくなることで景観もすっきりし、災害にも強い街作りが出来る。
もう大阪のこの付近は歩く気がしなくなった。
聖神社へ行く途中、鏡池がある。これは「葛の葉伝説」の重要な役割を果たす池である。

 聖神社
(新しい道がまた出来ている(2010年2月)
聖神社
(鏡池)

<鏡池> 和泉市史跡

信田の森の鏡池

信田の森は、「枕草子」に「もりは信田の森」と記されるなど、平安の昔から、我が国の代表的な森のひとつとして知られ、多くの和歌に詠まれてきました。
中世以後は、地域の人々に語り継がれ、演劇文芸などを通じて有名になった「葛の葉伝説」の舞台としても広く知られてきました。
安倍保名が妻の全快と子が授かるようにと信田大明神(聖神社)に祈願した際、池の水面に白狐の姿が映ったので、不思議に思って振り返ってみると、一匹のネズミが走ってきました(この坂をネズミ坂という)
このネズミは、猟師に追われて負傷した白狐が姿を変えたもので、保名は袖に隠して逃がしてやりました。
後に、白狐は、歩なのもとに女人の姿で現れ、保名の妻(葛の葉)となって男子を授かりました。それから数年後、白狐は我が子に本体を見られ。「恋しくば、尋ね来て見よ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」の歌を残して姿を消してしまいました。
保名は童子と信田の森をたずね、池の水面に映る葛の葉と最後の別れを惜しむのでした・・・・この童子こそ、後に陰陽道の祖・天文博士として天下にその名を知られた安倍晴明と語られています。聖神社
「葛の葉伝説」の中で、鏡池は、聖神社の神域にあり、「手洗い池」とも呼ばれていますが、これは神社で神事を行う際に、身を清める神聖な池であったためです。
「信田の森の鏡池」は「葛の葉伝説」の舞台であるとともに、宗教儀礼の上からも文化的・歴史的に貴重な文化財です。

平成九年三月三十一日
               和泉市教育委員会

(葛の葉稲荷の縁起と若干違うが、まあいいか)

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