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篠田王子~ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<篠田王子> 聖神社一の鳥居を出てすぐ南の路地裏に篠田王子跡の碑が建っている。 案内板が新しくできていた。 しかし小さな祠には入れないように頑丈に鍵がかかっていた。 新しい案内板には、 「平安時代の後半期から流行した流行した浄土信仰は、紀州・熊野こそ十方浄土の聖なる地、現世極楽の聖地であるという「熊野信仰に発展し、現世極楽の地にあこがれ。一切の罪業消滅を願う後続や貴族達がこぞって熊野の地を目指すようになりました。 延喜七年(九〇七)宇多法皇の御幸にはじまった熊野詣では、貴族の次に武士層に、南北朝以降は畿内の庶民層へと広がっていき、「蟻の熊野詣」と称されるほどに大勢の参詣人が熊野をめざして続いたと伝えられています。この熊野への参詣の道が熊野街道です。 京都から淀川を船で下り、大阪天満の渡辺の津に上陸し、そこから摂津国の天王寺、住吉を経て、和泉国を通過して紀伊国へと、陸路を南へ八十余里、往復およそ1ヶ月のみちのりでした。和泉市内では信太山丘陵の裾を現在のJR阪和線とほぼ並行して通っています。 熊野街道筋の要所要所に、遙拜所、休憩所として設けられたのが熊野権現の末社である”王子社”で、数が多いことから、熊野九十九とよばれています。 和泉市内では、篠田(信田)、平松、井口(茶井)の三王子がありました。 後鳥羽院の熊野詣でに随行した藤原定家の記録によると、一行はここ篠田(信田)王子で禊ぎの後、信田明神に参拝しています。 ここには、もとは熊野権現が祀られていましたが、明治四十二年(一九〇九)に葛葉稲荷に合祀されました。 王子町の地名は、ここに篠田王子があったことに由来するものです。 なお、熊野街道は、説経節の一つとして名高い「小栗判官」で、熊野参詣のため土車に乗った小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通ったことに因んで、「小栗街道」ともよばれています。 平成一六年十一月 和泉市教育委員会 と書かれている。
<小栗地蔵> 篠田王子後をすぎるとすぐに小栗地蔵がある。 古道沿いの家並みは、いかにも古道らしい風情で、街角ウォッチングにはもってこいのルートである。 小栗地蔵をすぎ徳川時代の高札場跡を過ぎると明坂と呼ばれる緩やかな坂道となる。 このあたりから新しく建てられた団地が目立つようになる。 町並みがにぎやかになる。 2000年に歩いた折には、いかにも古道らしい町並みが続くと書いたが、今回歩き直してみると、昔の面影が全くないくらいに変貌していた。周りは新建材を使ったおしゃれな建物ばかりになった。 それに駐車場スペースをとるため建物は奥に引っ込んでいるところが多くなった。これも時代なのだろう。仕方ない。 <八坂神社> 小栗地蔵を過ぎてすぐに八坂神社がある。 この地の氏神様で、境内の手水鉢には盆状の小さな水盤が刻まれている。 ここに清水を張って子安様を招き、安産を祈願する妊婦の信仰である。 聖神社ではこれが常夜灯に刻まれ、「犬は安産」という俗信によって狛犬に刻まれているところもあるという。 しかしこういうことは、そういわれてみないと分からない。 これから神社に行くと、注意をしなければ分からないことが多くなった。 江戸時代は元禄の頃からこうした信仰をあらわすのが流行ったらしいが、この八坂神社の手水鉢は、明治31年奉納とあり、新しい。 <平松王子跡> 聖神社、篠田王子跡を過ぎ放光池1号公園の手前に平松王子跡の碑が建つ。 ここもうっかりすると見落としてしまう。和歌山に行くと熊野古道となる道も、大阪では小栗街道である。 後鳥羽上皇一行は、この平松皇子近くで宿泊している。 定家はこの上皇一行に名を連ねたことで非常に喜んだということであり、この大阪近辺では喜々として接待や和歌会に勤しんだのであろう。まだ紀伊路は平たん路が続く。
道は南に続いている。平松王子碑の前の放光池1号公園の手前の長尾緑地には、小栗判官の笠かけ松がある。 公園の中には、住吉神社から運んだと言われる灯籠がある。 公園の中には小栗判官笠かけ松と照手姫の腰掛け岩がある。 由来を書いた看板がある。 「小栗判官の笠かけ松」 「照手姫の腰かけ石」 ほぼ南北に走る街道は熊野参詣道と呼ばれ、遠く平安時代の昔から聖地熊野へ向かう組成のための回路であり、祈りの道であった。この街道は、いつの頃からか「小栗街道」と呼ばれ、市民に親しまれている。由来は、中性の説経や金星の歌舞伎で有名な「小栗判官と照手姫」の伝説に基づくもので、架空の人物が公的な道路の名称に採られたのは珍しいことである。この「小栗判官と照手姫」の伝説とは、・・・・はかりごとで毒酒を飲まされ地獄へ追いやられた小栗は「餓鬼阿弥」となって再びこの世に戻される。見るも無惨な小栗だが、照手姫や沿道の民衆たちの慈悲の心で曳き次ぐ土車で熊野の湯の峰まで運ばれる。湯の峰で湯治した小栗はそこでもとの偉丈夫によみがえる・・・・。という奇跡の話である。 照手姫の曳く土車で熊野に向かう小栗がこのチマで来たとき、一休みしようと笠をかけた松が「笠かけ松」、そのかたわらで照手が腰を下ろした石が「腰掛け松」であった。 説経では照手はこの地まで来ていない。なのにいつしか民衆の心からこのような伝承が生まれたのであった。 和泉市人権啓発推進協議会・歴史文化部会 <泉井上神社・井ノ口王子跡> 道は南に延びている。平松王子跡を過ぎると自衛隊信田山駐屯地がある。都会的な団地や、いろいろな建て方をした住宅地の間を古道は抜けて行く。 退屈な道だと思っていると、古い町並みが続き、いかにも旧家という感じの家が多くなる。途中にある道標や地蔵などを見ていると、小栗判官伝説に基づく小栗街道が、今に引き継がれているのがよく分かる。 2000年に歩いたときは、すてきな町並みに感心しながら歩いたが、10年経って歩きなおしてみると、もうその当時の面影はなく、フツーの町並みに変貌していた。 途中で高校の玄関に立派な「歴史の道 熊野街道」と書いた碑があるが、何となく空々しい。 こんな物にお金をかけるのであれば、曲がり角にきちんとした道標を建ててほしい。 道の標記も、小栗街道であったり熊野街道であったり、バラバラである。
泉井上神社は、和泉市府中町6-2-38にあり、祭神は神功皇后、仲哀天皇、應神天皇などを祀る。 大鳥、穴師、聖、積川、日根の和泉五社も祀っている。 由緒あるものには、境内に和泉清水史跡がある。 神功皇后が半島より帰還した際に、一夜にしてわき出したので、霊泉とよび宮を設け、そのほとりに社殿を造営したと伝わっている。 和泉という国の名前の由来ともなったといわれている。 また、近在の農業発展に大きな役割をになってきた。 地理的に大阪南地域の要所であり、和泉国の国府を置いた。 神社から南300mが国府跡である。 祭りには、ダンジリ祭りが10月にある。 境内はきれいに手入れされており、いかにも歴史を感じさせるたたづまいで、訪れたものを迎えてくれる。 境内には、旧井ノ口王子神社が熊野社として祀られている。 周囲の景色は悪くなりつつあるが、こうした歴史ある建造物が残っているのを見るのはうれしい。
<井ノ口王子跡> 泉井上神社を出て市役所や小栗街道の道標などを見ながら南西に歩を進めると、柳田橋があり、そのたもとに子宝地蔵が祀られており、井ノ口王子跡を示す碑がある。 地元では「おじゃくぼ」と呼ばれていると言うが、「王子窪」が訛ったものだとものの本には書いている。 府道の西よりの地形が、少し窪んでいるからだという。 熊野古道を表す掲示板がある。 しかし熊野古道とは書かれていない。大阪の道だものね。ここから古道は府道に沿ってJR久米田駅付近を通る。 その駅の西裏付近が池田王子の旧跡とされているが、その痕跡すらもなく、近所の人に聞いても王子があったということすら知らなかった。 熊野古道は府道をさらに下松へとすすむ。柳田橋を過ぎ、松尾川に架かる橋は小栗橋といい、その名の由来などを書いた掲示板などがある。 さらに橋の歩道の部分には、地図がセンス良く、はめ込まれるようにして書かれている。 理想としては、京都から古道(ここでは小栗街道)を掲示板も含め、同じスタイルで統一されていることである。 そうすればこの古道はさらに素晴らしい道になるだろう。
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