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熊瀬川王子~岩神王子~湯川王子~猪ノ鼻王子 | ||||||||||||||||||||||||
<熊瀬川王子> 小広王子を過ぎ、国道にある「岩神王子口バス停」から杉木立の中を100m程行くと熊瀬川王子跡に着く。 継桜王子からとぎれていた古道がまた出てくる。 熊瀬川王子は、小広王子と比較しても、嘉暦元年(1326年)に仁和寺所蔵の「熊野縁起」に記録されている。 しかし紀伊風土記には、「小名熊瀬河は小広峠にあり」としている。 道の改修やらでわけが分からなくなっており、昔の人もよく分からないのだろう。 この熊瀬川王子跡からの山道は、普段の運動不足がもろに分かるルートとなる。 草鞋峠、女坂、男坂、岩神峠と続く山中は、まさに忍耐の道である。 その昔、木々が茂った上から山蛭が降るように襲いかかってきて、夏は地獄と恐れられた場所という。 常緑広葉樹の大木が頭上を覆い、それに加えて蛭が落ちてくるとなると、まさに修験の道である。 今はほとんどが杉林となり蛭の心配はないが、いつ頂上ともしれない細い道をひたすら歩かなければならないのは昔と変わらず、夕暮れなどは心細くなるであろう。 熊野巡覧記には、 誠に今も樹木生い繁り、日の光さえ希なり。 道は常に湿りて足をはこぶにものうし。 西の坂を下るやいなや、また東の坂にのぼる。 朝の霧谷を埋めては木樵も道を失ひ、夕のけぶり峰を蓋ふては旅人の思ひをさまし、 猿の嘯に腸を断とや。 とある。 まさにアマゾンの景色そのままである。 すごい道であったことが伺いしれる。 同じ熊野参詣でも現在は遙かに楽になっている。 ただしそんな大変な古道の道筋には、必ず茶屋があり疲れをいやす配慮がされている。 坂の名前を「女坂」と「男坂」とにし、谷にある茶屋を「仲人茶屋」と付けるところなどは心憎い配慮で、昔の人のセンスが素晴らしかったことを感じずに入られない。 女坂を下るときれいなせせらぎがあり、そこにかかる小橋を渡ると、今度はさらに険しい男坂になる。 その前に仲人茶屋で一息つくのである。 <岩神王子> 男坂は草鞋峠より遙かに厳しい登りとなる。 途中何度も立ち止まる必要がある。 岩神峠である。 岩神王子跡は、そんな峠の頂上にある。 岩神王子は、藤原宗忠が食料がつきてうずくまっていた目の見えない人に食事を与えた場所であり、湯川一族の祖先・武田三郎が参詣人を襲う山賊を退治した場所でもあると伝えられている。 目が不自由な人ですらも、この急峻な坂を登って熊野詣でをしていたことがしのばれる話である。 峠の頂上の王子跡に着くとほっと一息で、そこからはヘアピンカーブの連続する、比較的なだらかな下りとなる。 <湯川王子> 九十九王子のうち比較的格式の高い准五体王子として、道湯川の氏神として祀られてきた。 しかし明治末期に強引に近野神社に合祀され、さらにこの地は昭和30年代から無人になった。 近年土地の出身者によって小社殿が再建された。 現在においても現皇太子がここを訪れたという碑が建っている。 盗賊を退治した功労により繁栄し、平清盛を助けて平治の乱でも活躍した湯川一族発祥の地という。 往事は旅籠もありかなり栄えたと思われる村里である。 後鳥羽上皇一行は、ここ湯川(湯河)で宿泊している。 この湯川王子までの道筋に、熊野の男にプロポーズされ、親の許しが出たので熊野に向かう途中、不運にも盗賊に殺された、京都の芸妓おぎん地蔵がある。 藤原定家は、ここで上皇一行と夜中に着き、一泊している。 滝尻からここまで一気に歩いてきたのである。 御輿に乗ったかもしれないが、アップダウンのきついこのルートでは、落ちないようにするだけでも大変なことである。普通は近露泊まりになるのだが、かなり強行軍である。 定家は病弱だったというが、宮仕えはいつの時代もつらいものである。現在はまわりは杉林だが、往事は旅籠や物売りの建物もあったのだろう。 蛇形地蔵尊 その先にある蛇形地蔵尊はきれいな神社で、きれいな水場があり、トイレもあるので休憩には格好の場所である。湯川王子を過ぎ、三越峠をのぼると本宮になり、目的地の熊野本宮大社が近くなる。
三越峠関所跡 2002年9月23日に龍神本宮林道を走ったが、この三越し峠関所跡はその道沿いにある。 古道は、関所を抜け次の猪鼻王子に向けて下っていく。 林道からは発心門王子はすぐであるが、古道は猪鼻王子に向けて、まだしばらく山道が続く。 湯川王子からの古道は、この三越峠(550m)を越えねばならず、道も険しい。 頂上には、歩く人も、また林道を車などで走る人にとっても、トイレや休憩所があり、ほっと一息付ける。 三越峠は下りが面白い。 岩肌を流れるせせらぎを見ながら、いくつもの小橋を歩き、小さな滝を見ながら進む。 音無川源流である。 長い道のりを歩いてきて、熊野川に注ぐ支流の音無川を見れば、誰しも聖地が近いのを感じることだろう。 船玉神社 中辺路の59番道標を見て、少し行くと船玉神社と玉姫稲荷神社がある。そばに玉滝・音無の滝がある。 道沿いには家の跡などがあり、人の気配がし出すと、船玉神社である。 猪鼻王子跡はそれからまもなくである。 船玉王子の手前に、新しい石碑があった。 お父様をおってここ熊野に詣でたのを詠ったものであるが、情景が目に浮かぶ。 猪鼻王子跡は、以前歩いた時とほとんど同じ姿で、あった。 案内板がよくできているのでこのあたりで道に迷うことはまずないだろう。 この周辺は、1度目は確か2001年に歩き、今回は10年経って歩いたことになる。 <猪ノ鼻王子> 猪ノ鼻王子の言葉の由来ともなったといわれる山。 イノシシの顔をしているからそんな名前が付いたという。 そういわれればそうかなと思える。 このことは、並んで歩いた別の古道歩きパーティについていた語り部さんが説明していた。 そばで盗み聞きをしたわけである。 語り部さんのいるパーティと一緒に歩くとそんな余禄がある。 王子の碑から少し離れたところにひっそりと高さ30センチほどの石仏がある。 以前歩いたときには見落としていたのだが、改めてみると、なかなかいい石仏である。 熊野は一度だけ歩いてもなかなか全容が見えない。歴代天皇が幾度となく通った理由がわかる。 舗装道路をしばらく行くと上り坂がある。 案内板では発心門王子0.4km、猪鼻王子0.4kmと書いている。 ちょうど中間地点がこの上り坂である。少しきつい坂が発心門王子まで続く。 種類が違う木が、根っこのところで一つになっていた。なかなかおもしろい
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