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比曽原王子~継桜王子~野中の清水~とがの木茶屋 | ||||||||||||||||||||||||||||||
<比曽原王子> 古道を、旧国道に沿って近露の町並みを見ながら歩いていくと、旧国道は右にカーブしているが、古道は左に行く。程なく墓地があり、野長瀬一族の墓がそこにある。 南北朝時代、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりなが)が元弘の乱で熊野へ落ちのびてきたとき、この地の野長瀬一族がはせ参じて窮地を救ったといわれている。 この南北朝時代というのは、私の母方の先祖も落ちのびてきたということで、関心はあるのだが、何となくはっきりしないままである。 いずれにしろ、追っ手から逃れるには、熊野の地がよかったのだろう。 神秘的な深い自然が落ちのびた人々を包み込むように守ったのだろうか。 近露王子から比曽原王子までは2.4キロメートルである。 1時間10分たらずで着く。 近露の道中と呼ばれる集落から、茶屋の坂を登り旧国道に出る。 その上手で再び旧国道と離れるが、楠山坂を過ぎ道はまた旧国道に出る。 王子跡の碑は、旧国道の左、杉の木の下にある。 王子名は後鳥羽院御幸記では、ヒソ原、鎌倉末期の熊野縁起では比曽原で現在の地名と一致する。 江戸時代には近くに手枕の松という名木があって、文人たちの注意を引いたようである。 藤原定家の後鳥羽院熊野御幸記では、10月14日に 「すぐに〔この時、亥の時〕輿に乗り出発し、川を渡り、すぐ近露王子に参る。次にヒソ原、次に継桜、次に中の河、次にイハ神とのこと」 とある。 現在では小さな碑があるだけである。この王子からとがの木茶屋は800mほどである。途中で野中の清水に降りる道がある。水もあり休憩できるので、もう一踏ん張りである。 <継桜王子> 明治末年の神社合併で、近野に合祀されていたご神体は昭和25年にこの社に還った。 野中地区の氏神でもある王子社で、社殿は石段の上にある。 境内の斜面に一方杉の巨木があり、県指定の天然記念物である。 明治の神社合祀で各王子社にあった古樹はほとんど伐採されたが、南方熊楠の運動でかろうじて残ったのが、高原熊野神社の大楠とこの継桜王子の杉だったという。 王子名のもとになった名木の継桜が早くから社前にあり、それが秀衡桜と呼ばれて植継がれてきた。 今は東方100mの所にあり、やはり威風堂々としている。 秀衡桜(ひでひらざくら)は、継桜王子社から約100m東の道端にある。 平安時代後期、奥州の豪族、藤原秀衡が滝尻の岩屋に残したわが子の無事を祈念して、そこにあった桜を手折り、別の木にその桜を継いだという伝承があり、植えつがれていまの桜は何代目かになるという。 ちょうど通りかかった語り部さんの話では、年々咲く桜の花の量が少なくなっているという。 ここで思ったのは、中辺路にしろ大辺路にしろ、どの木も樹勢が衰えてきている。 これはやはり適当に間引きしないからである。 その語り部さんも都市から中辺路に嫁いできた当時は、薪の木を山に切りに入ったという。 重労働であったががんばったと言うことである。 私も子供の頃はリヤカーを引いて、山のウバメガシを切り出しに行った。 木を切っても次の世代を見越したもので、切っていけない木と残し方を、教え次いできたのだが、最近はそのやり方を知らない世代が増えてきている。 もちろん私も切りには行ったが、そういうノウハウは教えてもらってない。 でもこの熊野古道の周辺については、世界遺産でもあり、周りの林のことなども気配りして、保護し維持していかなければならないのではないかと思う。 この秀衡桜の木の下に、高浜虚子の句碑があるが、驚いたことに親子3代にわたって碑がある。 高浜虚子の碑には、 「鴬や御幸の輿もゆるめけん」 とあるが、ウグイスが鳴いているので熊野詣の天皇も御輿を止めて聞き入った情景が浮かんでくる。 おつきの藤原定家も同じように鳴き声に聞き入ったであろう。 星野立子は虚子の次女で、 「うぐいすの句碑守る老に別れ惜し」 これは作者の優しい思いやりが伝わるすてきな句である。 稲畑汀子は虚子の孫で、 「中辺路は峡深き里暮れ早し」 と詠っている。 中辺路を歩けば夕闇が早くおとずれるのでびっくりするが作者も夕暮れの早さに驚いたのだろう。
野中の清水 継桜王子の前の断崖の下に野中の清水がある。 全国名水100選にも選ばれている。旧国道311号線脇にあり、きれいに管理されている。 旅人がこの湧き水との縁を歌枕に数々の歌や句を残している。 いにしえのすめらみかども 中辺路を越えたまひたり 残る真清水 (昭和9年 斉藤茂吉) 斎藤茂吉の句碑の傍らには、松尾芭蕉の門人、服部嵐雪(はっとりらんせつ)の、 すみかねて道まで出るか山清水 の句碑がある。 宝永2年(1705年)に仲間とともに伊勢と熊野を詣でたあと、田辺に向かって歩く途中、ここに立ち寄り詠んだ句という。 新しい311号国道が出来るまでは、ここが新宮から田辺への主要ルートであったため、よくここで休憩した。 水は滾々とわき出ており、おいしい。手前に階段があり、水が汲みやすくなっている。 日本名水百選のひとつに選定されている。 現在も地元の人たちの貴重な飲料水・生活用水として使われている湧水である。日本もこういう湧き水があちこちにあるが、すでに枯れているところもたくさんある。 こうした貴重な水源をこれからも守り続けて行かなくてはと思う。 とがの木茶屋 継桜王子の近くにある茶店。 見晴らしのきく茶店の前からは、眼下に野中の里。それに続く山並みが眺望できる。 古道ブームで、ここの女将さんはテレビ出演も多くなっている。 20年ほど前にここを訪れたときは、ひっそりとした佇まいであったが、今は母屋の縁側も開放している。 おそらく、それぞれの王子社近くにはこうした茶店が建ち並んでいたのであろう。 これからもずっと残っていてほしいと思う。 2009年10月4日に数度目の訪問した折りに、女将さんに、ここの茶屋は昭和53年(1978年)に建てたということを聞いた。 ということは、私が初めて熊野古道を歩いたのは、まさにこの年であったのがわかった(いつだったか忘れてしまっていたのである) この茶屋の近くに、野中伝馬所跡がある。 いまなら公設宅急便のような感じで、郵便局と運送の二つを掛け持っていたのかもしれない。 いずれにしろこのあたりはいろいろな史跡がある。 それだけ街道では重要なポイントであったのだろう。 それは今でも変わっていない。
<中ノ河王子> 旧国道311号線に出て、約1km歩き標識のある脇道を50m程登ると、中ノ河王子跡がある。 かつては熊野参詣道が、ここを通っていたことがわかる細い道に挟まれて碑が建っている。 小さな祠があり、私が行った折りは、祭りに使ったと思われる餅や果物が供えられていた。 日常的に誰かがお供えをしているのであろう。 いい風習である。 ここまでの道はほとんどが旧国道で歩くには面白くない、できるなら本来の古道を整備していただき、樹林の中を王子を偲びながら歩きたいと思う。 王子は比較的早く作られたらしく、中右記に「仲野川王子に参る」とある。 資料によっては、「中川」であったり「中河」であったりする。 県発行のガイドブックには、「仲河」とあるのでそれに合わせた。 跡碑には、「中川王子」とある。 国道から王子までの道は、雨上がりなどはよく滑るので、歩行には気を付ける必要がある。 <小広王子> 小広峠の道端に、小広王子碑が建てられているがわかりにくい王子である。 小広峠を下って草鞋峠の登りにかかって間もなく熊瀬川王子碑がある。 しかし、どの本を読んでも明確なものはない。 古道を歩き、碑や施設を写真に撮っていざ整理する段になると、どれがどれか分からなくなる場合が多い。 碑だけの王子はまことにやっかいである。 記録には、カメラを2台持っていき適当に使い分けるが、できたネガが別々になるので整理が大変である。 ホームページにするため、あちこちのガイドブックや資料を参考にしながらタイプするが、イメージが残っていない。 特に、国道を行く場合にわかりにくくなる。 本来の古道らしい古道を行く道は、木の橋があったり廃屋があったりして記憶にとどまるが、国道をルートとする場合は、面白くないのでつい注意が散漫となる。 この小広王子や前の中ノ河王子なども、その周辺がどうだったかを思い出しにくい所である。 (記憶力の減退もそれに拍車をかけている) また王子に関する資料を見ても、確固としたものはない。 その辺にあったのかな、という感じでいいと思う。 新しくできている案内板には、「天仁2年(1109年)熊野に参詣した藤原宗忠は12月25日に仲野川王子に奉幣したあと「小平緒」「大平緒」を経て岩神峠向かったという。 この王子社はそれに由来するといわれているが、江戸時代以前の記録には登場せず、土地の人々が小広峠の上に建っていた小祠がいつの頃か小広王子と言われるようになったと推測される」ということが書かれている。 ここに来て初めて知ったことだが、このルートを龍神バスが運行されていることで、時間を合わせれば結構使えそうな気がする。 本宮行きが一日2本、中辺路行きが一日1本だが、足のない歩きの場合、便利だと思う。 歩行計画を立てるとき組み入れてはどうだろうか。 龍神バス時刻表 http://www.ryujinbus.com/tanabe_hongu.html
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