熊野古道 中辺路2
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大門王子~十丈王子~大坂本王子~牛馬童子~近露王子

<大門王子>

大門王子は滝尻王子から3時間足らずの位置にある。熊野古道 大門王子
ここまで来ると標高も500mを超え、訪れた日は小雨であったので霧がまわりを包み、いかにも霊域らしい雰囲気であった。古道は雨の日でも、雑木や時には高い杉の木の葉に守られて、それほど濡れることがない。暑い夏には自然のサンシェードである。昔はもっと木が生い茂って、旅人を優しく守っていたのであろう。
また、道は落ち葉が適当なクッションの役目をし、疲れた足をいたわってくれる。
しかしここを夜歩くには勇気がいりそうである。山賊やオオカミにおそわれたかもしれない。

大門王子は山中の要地で、ここに熊野本宮の鳥居があったからであろうといわれている。
熊野古道 大門王子今は社殿も新しくなり、境内に大門王子の碑がある。
またそれらと並んで、鎌倉時代のものとされる石造りの笠塔婆がある。平安時代からの休息地「水飲」もこの付近であったという。しかし古い参詣記には記述がなく、新しい王子ではないかといわれている。江戸時代にはもう社がなく、碑だけが建てられていた。

「乗輿今夜付昼養山中宿。此所又不思議奇異小屋也。完封甚堪難」と藤原定家が書いている。この山中宿というのが、ここ大門王子の周辺であろうといわれている。
建仁元年10月13日。もう夜はかなり寒く、奇異な小屋というからまさにむしろで囲ったくらいのお粗末な小屋だったのだろう。

以前は見事な松の大木があったが、マツクイムシの食害で枯死し、伐られたという。
小さな朱塗りの社殿が建てられており卒塔婆と碑はその背後に隠れてしまっている。そのため以前歩いたときは気がつかなかった。(2011年5月8日 13:26)

4時間かかって歩いてきたのでのども渇き、糖分が少なくなったのかお茶をのみチョコレートを食べるとおいしい。
滝尻からほぼ4時間歩いたところで、木立が切れるところがあり、展望が開けている。
その周辺の木をふと見上げると、枝が南に向けてゆがんでおり、北側に枝がない。
これはここが風の道になっているのだろう。そういえば、ちょうど風を集めて吹き上げるような地形である。
自然というのはおもしろい。
特に見晴らしのいいところでの小休止は気持ちがいい。

何となくここをビュースポットに切り開いた感じがする。熊野の山並みを体感するのにいいところである。

熊野古道 大門王子
(2011年5月8日 13:46 木立が切れ果無の山々が見える。ここで小休止)
熊野古道 大門王子
(今は杉木立の中にある)
熊野古道 大門王子
(松の木があったことを記す碑)
熊野古道 大門王子
(2011年5月8日 13:40)
熊野古道 大門王子
(2011年5月8日 13:56)
熊野古道 大門王子
(2011年5月8日 13:47 枝が一方に
熊野古道 大門王子

<十丈王子>

十丈王子跡は十丈峠のきれいな杉林の中にある。十丈王子
杉林を伐採した跡らしく、切り株があり休憩にちょうどいい。
大門王子からは約40分である。
パンフレットなどでは、江戸時代にこの付近にも家があり、氏神として祀られていたが、明治末期の神社合祀で廃社になったという。今十丈は無人の山中になっている。
ここの地名は中右記に重點とあり、後鳥羽院御幸記など中世のの参詣記でも、王子社は重點となっている。
これが近世になって十丈と変わったという。
ある案内の本では「重照(しげてる)王子」としている。
これまで歩いてきた中にも名前の変わった王子がたくさんある。

ここも案内板が整理されていた。字の消えた案内板がみすぼらしかったが、よくなった。
王子跡の手前にはきれいなトイレがある。なんとソーラートイレである。またきれいな水場があり、おいしい水が飲める。
林の中では、鹿の子供らしい鳴き声がした。姿を見ようと林の中に少し分け入ったが見えなかった。

十丈王子から悪四郎山までの道の間に小判地蔵があり、かわいい表情で道行く人を見守っている。小判地蔵
このあたりは道が狭く路面に枯れ葉などが積もっているのと崖などもあるため歩行には十分注意しなければならない。
ここまでかなり歩いたので、足下がおぼつかなくなっているので余計注意が必要である。
小判地蔵を過ぎるとすぐに、悪四郎屋敷跡があり、看板が立っている。
道はまだまだ登りが続く。こころなしか全員声が少なくなってきた。
きれいな石積みがある。
こうした石積みは水を通すので崩れにくいのである。
歩きには気をつける必要がある。

十丈王子
(2011年5月8日 13:56)
十丈王子
(2011年5月8日 14:03)
十丈王子 十丈王子
(以前の十丈王子社跡碑)
十丈王子
(2011年5月8日 13:47)
十丈王子
(2011年5月8日 14:05)
小判地蔵
(2011年5月8日 14:28)
悪四郎屋敷跡
(悪四郎屋敷跡)
悪四郎屋敷跡 一里塚
(2011年5月8日 14:45)
悪四郎屋敷跡
(2011年5月8日 14:33)
悪四郎屋敷跡
(2011年5月8日 14:29)

 上多和茶屋跡

古道を歩いていると、こうした茶屋跡がよくある。上多和茶屋跡 中辺路
人家があったと言うことは、古道歩きの相手や、あるいは林業などで生計が立てられていたのだろう。
その土地を離れる時に、杉や檜を植えたので、こうして杉林になったのだろう。
ここに茶店があって、人の賑わいがあれば楽しいだろうな、と考えながら歩いた。

上多和茶屋跡から道は緩やかな下りになる。
もう5時間以上歩くことになり、足もかなり疲れてきている。
下りの道はありがたい。

 三体月の伝説
三体月 中辺路
「今は昔、熊野三山を巡って野中千香露の里に姿を見せた一人の修験者が、里人に『わしは十一月二十三日の月の出たときに、高尾山の頂上で神変不可思議の法力を得た。村の者も毎年その日時に高尾山に登って月の出を拝むがよい、月は三体現れる』半信半疑で村の庄屋を中心に若造達が陰暦十一月二十三日の夜、高尾山に登って月の出を待った。やがて時刻は到来。東伊勢路の方から一体の月が顔をのぞかせ、アッというまにその左右に二体の月が出た」と看板にある。
この11月23日には、毎年地元で月を見る会があると聞くが、一度見てみたいものたぶん11月の末で、急に冷え込んだりしたとき、空気の関係で3つに見えたのだと思うが、地形複雑で何があるか分からない熊野の地の、いかにも隈野の伝説という感じで面白い。

歩き始めて5時間半。
逢坂峠に着いた。
ここはアスファルトの林道と交差する。
ここから次の大坂本王子まで、あとわずかである。
2011年5月に歩き直したが、林道は以前と変わらずダートのままだった。
最近は舗装されたところが多いが、ここはまだだ。
以前歩いた時は道が出来たばかりだったが10年ほど経って周囲に馴染んだ道になっていた。
この林道を横切り、対面の案内板に沿って今度はきつい下りを降りることになる。

以前歩いた時はここで膝が笑ってしまったのである。

上多和茶屋跡 中辺路
(2011年5月8日 14:50)
上多和茶屋跡 中辺路
(2011年5月8日 15:12)
三体月 中辺路
(2011年5月8日 15:16)
三体月 中辺路
(以前の三体月伝説看板)
中辺路 大坂本王子
(以前の道。道が出来たばかり)
 
 中辺路 大坂本王子
(2011年5月8日 15:21)
 中辺路 大坂本王子
(2011年5月8日 15:35)
 

<大坂本王子>

大坂本王子は逢坂峠東側麓近くにある。中辺路 大坂本王子
きれいな杉林の坂道を下った、谷川近くにある。
明治以降坂道のルートが変わったらしく峠からは少しはずれている。
逢坂峠は、急峻な坂道であるため、古くは大坂の名がある。
大坂本王子は、建仁御幸記に参ったと出ており、為房卿の参詣記では、深夜大坂の草庵で猿の鳴き声を聞いている。
案内板には、

「大坂(相坂)の名は古く、永禄元年(1081年)熊野参詣の「為房卿記」に、大坂の草庵に着き泊まって猿の声を耳にした」

と記している。
中辺路 大坂本王子江戸中期の調査記に、

「右坂下り口より一八間入込、杉雑木森、社方四尺とあって、元禄の頃には社殿もあったという」

と紹介されている。
今も石積みされた社地の跡は杉林の中にはっきり残っている。

ここ坂本王子も以前の案内板がなくなり、すっきりと落ち着いた感じに変わっていた。
これが本当の史跡保存だろう。
それにしても明治期の神社合祀は不合理で官僚のなせる業である。
もしここに残っていれば面白い施設になっていただろう。(2011年5月8日 15:38)

 朝9時50分に滝尻王子を出発して、6時間あまりで「道の駅 牛馬童子ふれあいパーキング」についた。
よく歩いた。
以前歩いた折にはメチャクチャ足の速いペースメーカーがいたので周りを見る余裕もなく早く歩いたが、還暦を超えての山道は、やはり時間がかかった。
その分以前見落としたものもじっくり見ることが出来た。
世界遺産になって不要な看板も取り払われきれいになっているのがうれしかった。
案内板もよくできているので、このルートで迷うことはまずないと思う。
(2011年5月8日)

中辺路 大坂本王子
(2011年5月8日 15:36)

(2011年5月8日 15:50)
中辺路 大坂本王子
(2011年5月8日 15:51)

(道の向こうは牛馬童子バス停15:57)
中辺路 大坂本王子 中辺路 大坂本王子
(2011年5月8日 15:48)

(2011年5月8日 15:56)
中辺路 大坂本王子
(2011年5月8日 15:24)

 牛馬童子
熊野古道 牛馬童子
大坂本王子を過ぎ、逢坂峠道を下る国道311号線と古道が接するところに、中辺路道の駅がある。
そこから古道は再び山に登る。
箸折峠である。坂の入り口にはきれいな掲示板がありわかりやすい。
箸折峠は中辺路ルートでも人気のあるところで、道がいかにも古道らしいこともあるが、さらに牛馬童子が古道紹介の写真などで評判になったからである。
いまや熊野古道のシンボル的存在である。

「花山院の旅姿」をあらわしたとされるこの像は、明治22年のにこの付近に住んでいた人が残したものだという。
牛馬童子の傍らには「花山院の経塚」といわれるものがある。

花山法皇は、藤原氏の策略にあい、出家とともに皇位を失い、呆然とした心境のまま都を離れ熊野御幸に旅立ったという。
「箸折」、「近露」それぞれの地名もすべて花山法皇が熊野詣での折り、ここで昼食の箸を求めて萱を折ったことにちなんだものであり「箸折」、その萱の軸が赤く染まっているのを見て「血か露か」と訪ねられたので「近露」。
旅行中に箸の一本も持っていないとは考えられず、さらに赤い軸を見て血かそうでないかを判断できないほどだめな人だったんだろうか?
ま、いいか。
それより、花山法皇が、西国33カ所と熊野詣での道とがあちこちでクロスするところが面白い。
建仁元年の後鳥羽上皇一行は、ここでも和歌会を催している。
京都を出てから10日目であり、大きな坂をいくつも超えてきた病弱な定家にとっては大変な作業を任されたことであろう。
古道にまつわる伝説を調べていると、マリア様の処女懐胎より荒唐無稽なものがある。
それがまた面白いのである。
牛馬童子を過ぎてまもなく視界は一気に開け、きれいな休憩所もあるところに来る。
ここから近露の集落を、眼下に一望することができる。
近露王子は旧国道311号線の道筋に社殿があり、出口王仁三郎の書になる碑が建っている。今は、国道311号線も位置を変え新しく広くなり、交通は便利で早くなった。古道は新しい道と並行してある。

熊野古道 牛馬童子
(宝篋印塔(県指定文化財))
熊野古道 牛馬童子
(道脇にあるかわいいお地蔵さん)
熊野古道 牛馬童子 熊野古道 牛馬童子
(木漏れ日がきれいな古道)
熊野古道 牛馬童子
(一里塚跡)

<近露王子> 熊野古道 近露王子

ここ近露王子で、滝尻王子と同じようにこんどは日置川で禊ぎをし、さらに霊域に奥深く入り込んだのである。
牛馬童子のある橋折峠を下り、川を渡るとすぐにこの近露王子社に着く。

近露王子は明治の末期までこぎれいな社殿があり、上宮と呼ばれていたという。
しかし、神社合祀で取り払われ境内にあった十数本の杉の木も伐採された。

南方熊楠はこの王子の合祀と杉の木の伐採に反対したが、結局は「近野神社」に合祀され、杉も伐採されてしまった。残念である。
今ある碑は、元の社地に分祠された際に建立されたものである。  

藤原定家の日記には、滝尻についた夜歌会をし、すぐに出発して山中の小屋(大門王子付近)で宿泊、その後十丈王子、悪四郎山、逢坂峠を越えて昼頃近露に着き、ここでまた歌会をしている。
かなり強行軍で、この日の宿泊は、後に出てくる湯河王子である。


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