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熊野古道 和歌山
熊野古道陸路はいよいよ熊野三山のメインルートです
熊野三山最後の二つの神社への参詣道を歩きます。
熊野三山の自然とマッチした奥深さを感じながら歩き、そしてお参りします。
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浜の宮王子・
補陀落山寺
市野々王子跡
多富気王子社跡
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浜の宮王子
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浜の宮王子
浜の宮王子は、国道42号線を新宮からだと那智駅前を右に折れて、50m位の所にある。
那智山への入り口にあるこの王子は、渚の宮とも呼ばれ、熊野三所権現を祀る格の高い神社で浜の宮王子跡はここの境内にある。
熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)は、夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神を主祭神とすることが名称の由来とされる。主祭神像三躯は国の重要文化財に指定されている。 那智山に詣でるときにはここで潮垢離をし、心身を清めた。
隣には、補陀落山寺があり、神仏習合の名残がある。
境内には、周囲6m近い楠がそびえている。この大きな楠木は樹齢800といわれる。
補陀落渡海する僧たちもこれをみながら船に乗ったのだろう。
熊野年代記に欽明天皇24年「浜の宮に宮殿出現」とあり、同30年補陀落観音出現とある。
神社の境内はよく手入れされており、是非とも立ち寄り、熊野にふれていただきたい所である。
有名な勝浦温泉はすぐ近くで那智駅前にも、町経営の温泉があり、泊まり込みでゆっくりできる。
夏は海岸で海水浴ができる。
古道も、最終コースに入り、市の野王子そして、最後の多富気王子まであとわずかである。
2008年2月10日に訪れた折りは、ちょうど祭礼の真っ最中であった。30年ぶりくらいにこの祭礼を見たが、素朴な中にも神社の歴史の深さと格式の高さをうかがい知れるいい祭りであった。
祭りのメインはお的で、6名の射手が、交代に3mほどの的をめがけて弓を射るのであるが、なかなかうまく当たらない。中心の黒丸に当たれば太鼓が打ち鳴らされる。
お的の行事のほかに獅子舞やもち投げがある。
また地域の人が出し合ったお金で賞品を買い、抽選会もあった。なかなかすごい賞品があった。
(社殿)
(当たりそうで当たらない)
(先輩からは「高い」とか「もっと右」とかの声が)
(右手の6人が射手)
(的の後ろに刺さった矢)
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<補陀落山寺>
仁徳天皇の時代にインドから熊野の海岸に漂着した裸形上人によって開山されたと伝える古刹で、平安時代から江戸時代にかけて人々が観音浄土である補陀洛山へと小船で那智の浜から旅立った宗教儀礼「補陀洛渡海」で知られる寺である。
江戸時代まで那智七本願の一寺として大伽藍を有していたが、1808年台風により主要な堂塔は全て滅失し、その後長らく仮本堂であったのが、1990年に現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された。
夏に海水浴客でにぎわう以外は、ふだんは静かな浜辺、那智浜は極楽に一番近い浜である。
平安時代に、南の極楽浄土をめざして那智浜にやってきた人たちは、さらに南へと小舟に乗って補陀落山(フダラクサン)へと旅立った。
この船出を補陀落渡海といった。
「平家物語」で有名な、平維盛の入水の話は、それをあらわしている。
「吾妻鏡(アヅマカガミ)」にも渡海僧のことが書かれている。
船を戸板でおおい、釘で封じてしまう最初から死を覚悟の船出だった。
鎌倉時代から室町時代にかけて、こうして渡海する僧が多くなってきた。
そこで、浜辺に寺が建てられ、渡海僧の修行の場とされたのが補陀落山寺である。
はじめのうちは、本当に極楽浄土をめざして、この浜から船出したのだが、時代が下ると形式的になり、補陀落山寺の住職が渡海することになる。
そして、江戸時代には、渡海をいやがる金光坊という僧をむりやりに船に乗せたが、金光坊は途中で逃げだして、入江の島にあがってしまった。
掟を破ったとして海につきおとされてしまう。
この事件がきっかけとなり、補陀落渡海は廃止されたという。
今、那智海岸は埋め立てられ、階段がつけられている。
この浜のキスは大きいので有名であるが、この埋め立てをしてからさっぱり釣れなくなったという。
それでも名古屋から来たという釣り人は、キャスティングを繰り返していた。
クーラーバッグを見せてもらったが、30センチ近くのキスが1匹入っていた。
(補陀落山寺)
(補陀落へ旅立った船の復元模型
(ここから船出したのだろうか?那智浜の朝)
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