熊野古道 京都2
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<法住寺>

三十三間堂はすでに閉っていた。4時までであった。しめるのが少し早いね。 新熊野神社
三十三間堂から南に少し行くと法住寺がある。ここには後白河上皇のお墓がある。しかしここの墓は、土休日は開けていない。宮内庁はもっと門戸を広くしてほしいね。法住寺でも朱印をもらった。
お寺の奥さんらしき人と、熊野古道などについて、話をしたが、串本弁は少し通じにくかった。
しかし、この法住寺、歴史がある。
三十三間堂が法住寺の前身である広大な法住寺殿の御堂の一つに過ぎなかったことは知らなかった。
藤原為光が法住寺を建てたが、その跡に、後白河法皇が永暦元年(1160年)法住寺殿を造営し、ここで天皇五代34年の長い院政を行い、政治や文化の中心となっていたという。
法皇は木曾義仲を利用し、平家一門を西国に追いやるが、義仲を嫌った法住寺は密かに源頼朝の上京を図る。
それに腹を立てた義仲が法住寺殿を焼討ちした。
その後、義仲は頼朝の派遣した範頼、義経に敗れ、いよいよ武家の時代に移る。
焼けた法住寺殿の跡には、現在の法住寺が建ち、法皇木像が安置されている。また赤穂浪士の像もある。
そんなことをいろいろ話をしたら時間が経ち、陽はかなり赤く変わって来ていた。タ暮が近くなっていた。
東大路通りに出て、新熊野神社に向かった。ゆるやかな下り道を歩き、道は橋になり、JR東海道線の上を行く。

新熊野神社 新熊野神社
(後白河御陵を示す石碑)
新熊野神社
(その近くのお地蔵様)
新熊野神社
新熊野神社
(三十三間堂出口)
新熊野神社

<新熊野神社>

新熊野神社は、橋からからまもなくにあった。社務所には誰もいなかったので、ボタンを押すとかなり年配の宮司さんが出て来た。
「新熊野と書いて、『いまくまの』というのですね」と聞くと、うれしそうに笑いながら、新熊野神社「今より新しい物はないでしょう」と答えてくれた。なるほどね。
ヤタガラスの置物などが土産に売られていた。絵馬もヤタガラスであった。

ここ新熊野神社は、
「熊野信仰の盛んな平安京の末期永暦元年(1160)後白河上皇は平清盛をして紀州国(現在の和歌山県)の熊野の神を勧請、熊野の新宮即ち新熊野神社を創建された官弊の社であります。
その造営には聖地熊野の土砂木材等をもって、社域を築き社殿を造り神域には那智の浜青白の小石を敷き詰め、熊野の様相をこの地に再現されたと云われています。社殿の巨樹「大樟」もその当時、熊野より移植された「上皇お手植えの樟」と伝えられています。
創建以来約350年間、繁栄は洛中に冠絶していましたが。戦国の乱世には度々の兵火により焼失、約120年間廃絶同様の状態でありました。江戸初期、後水尾上皇の中宮東福門院(徳川二代将軍秀忠の娘和子)は当社の復興を発願され、寛文13年(1663)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇皇子)により再建されたのが、現在のご本殿であります」
とパンフレットにあった。
パンフレットの表紙にある境内はかなり広い。往時は、かなり広大な境内で、たくさんの人が訪れたであろう。
皇太子もここで植樹されたと書かれている。
またここは芸能上達の守護神ということである。
境内には樟の木があり、かつては天然記念物に指定されていた巨木で、 当社創建の際、熊野から移植したものと伝えており、高さ約19メートル、周囲約6メートルに達する。

朝11時から歩き始めて、5時になった。
写真の写りも赤くなってきた 。夕焼の中を京都駅にむかった。
途中のファミリーレストランで夕食にした。ビールがうまかった。


新熊野神社 新熊野神社
(絵馬はヤタガラス)
新熊野神社
新熊野神社
(ヤタガラスのおみやげ?

<東寺>

夜、京都駅から東寺を見ながら歩いた。東寺デジカメと35mmを持っていたので、同じ角度から撮ってみた。

さて、この東寺は昔からよく来ている。特に弘法市の21日には時々やってきて、古物をあさったりもしている。
じつは、今回の京都は、人間ドックも兼ねてきた。九条に病院があり、そこから近いのである。明くる日、ドックの1日目が終わってから再び東寺を訪れた。時間は4時過ぎだったが曇り空で、5重塔もモノトーンになってしまった。
朱印を頂いたが、挟んでくれた紙には、

”真言宗総本山東寺について”

このお寺は平安造営の時東寺として創建されました。
皇居から南へ延びる朱雀大路の南端に、都への入り口として羅城門があり、その東側に東寺、西側に西寺の官立寺院が建立されました。そして東寺を弘法大師に賜ったのであります。東寺は左京と東日本の守り寺として千二百年になります。(西寺は現在存在しません)
弘法大師はその教えを真言宗と名付けられ、東寺は教王護国寺と名乗りました。人間も自然もそのまま仏様と同じであると教えられ、誰でもやれば出来ることを示されました。今日はわざわざご参拝下さいまして大変有難うございました。 
合掌   真言宗総本山 教王護国寺(東寺)」
また、別のパンフレットには、

「”お四国八十八カ所巡拝は先ず東寺の御大師様(御影堂)にお参りしてから”

御大師様は東寺で真言宗を開かれ、東寺を真言宗の根本道場(中心の寺)とお定めになりました。東寺御影堂の御大師様は、木造では国内最古の尊像で、国宝に指定されています。御影堂は、御大師様が実際にお住まいになられたところで、毎朝御大師様にお供え物を差し上げ、参拝の方にお加持する生身供養法要が行われ、どなたでも参拝して頂けます。京都東寺にて遍路道中安全を祈願することをおすすめします」

とあった。
西国八十八カ所を旅する前は、ここ東寺にお参りし、巡礼を終了し、満願成就の暁には、高野山にお礼参りをするのである。高野山に行くと八十八カ所の御朱印をもらって来、高野山に巡礼姿でお参りする信者をよく見かける。
人生の一大イベントを、こうして理由付けと御大師様の後押しを頂いて行うというのはいいかもしれない。
このお寺も、熊野詣でをするとき、道中の安全を祈願してお参りしたであろう。

東寺は、真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。
「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。
東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められ嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。
昭和9年(1934年)に国の史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。
講堂は重要文化財であるが、金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。
須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩、五菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。
また、須弥壇の東西端にはそれぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。
以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。
21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。
立体曼荼羅として寺社の紹介番組などでも必ずと言っていいほど紹介される。

五重塔は京都のランドマーク的存在で、どこからでも見ることができる。
初重内部の安置されている仏像は、
東面 - 阿閦如来、弥勒菩薩、金剛蔵菩薩
南面 - 宝生如来、除蓋障菩薩、虚空蔵菩薩
西面 - 阿弥陀如来、文殊菩薩、観音菩薩
北面 - 不空成就如来、普賢菩薩、地蔵菩薩
である。
あと、金堂、食堂などたくさんの堂塔がある。とても一日では回り切れない。
毎月21日には弘法市が開かれ、日用品から、古着・骨とう品などの露店が立ち、たくさんの人でにぎわう。

東寺
(納経堂)
東寺
(五重塔)

(納経堂のお札)
東寺
(御影堂)

<六孫王神社>

東寺の西門を出て、壬生通りを北にしばらく歩き、JRの高架手前に、六孫王神社がある。
ここは京都十六社朱印巡りの一つになっていたので訪れた。六孫王神社
六孫王神社は小振りながらいかにも歴史がありそうなたたずまいである。
ただし、周りの景色はJRの高架やコンクリの建物などで、余りいいとはいえない。これは仕方がない。
境内には池があり鯉が飼われている。その畔には弁財天社がある。
例の如く朱印と一緒に頂いた由緒書きには、

「六孫王神社

当社は六孫王大神・天照皇大御神・八幡大神を主祭神としてお祭りいたしております。 六孫王大神は清和天皇の<孫>にあたり、父は天皇の<六>男貞純親王のお子として生まれられ『経基』と名付けられましたが、 呼称として『六孫王』と呼ばれていました。
経基王は文武両道に優れられ、日本歴史上に武将として最も名を後世に残した【清和源氏の始祖】で、源氏姓を賜り、 承平・天慶の乱(939~941)においても武家の棟梁として、平将門・藤原純友の起こした乱を鎮定され、 世間の耳目を集めました。後代には源頼朝・義経・義家・為朝・頼光・義仲等といった源平合戦を彩る無精が多数輩出し、足利・武田・島津・細川・今川・山名・明智・徳川等といった大名が歴史を賑わすのであります。このような清和源氏の家系は大変出世された方が多く家運も子々孫々栄え、全国の信者様に御神徳を頂いたと喜ばれています。車紋は[牡丹]ですが、昔朝廷から提灯等下賜され菊紋を使うことを許されました。また、六角紋の両側の模様は龍をかたどってあります」

とあった。
頂いたパンフレットの中に、『あなたの家も清和源氏家系では』という項があって、我が「松本」もあった。
ひょっとして天皇家の子孫?でもそのパンフレットに書かれている名字だけでも81あって、「清和源氏名鑑より一部抜粋」なので、ほとんどの名字があるのだろう。
私の祖先は遠く東南アジアだと、ほぼ確信しているので、これはできのいい高貴なほうの松本だろう。


六孫王神社
(唐門)
六孫王神社 六孫王神社
(恋の架け橋)
六孫王神社
(神龍池 鯉魚塚)
六孫王神社
(鳥居)

<粟島堂>

六孫王神社をでて、北に歩くと、JR高架手前に「兒水不動明王」がある。
余り綺麗な水ではなかったが、出ていた。高架下をくぐってリーガロイヤルホテルに向かった。
途中、地図にもない神社があった。
粟島堂とあったので、何となく加太の淡嶋神社に近いのじゃないかと入った。
神社の建物はかなり近代化されているが、そこかしこで、七百年余の歴史を感じさせるものがあった。
やはり淡嶋神社とのつながりがあり、境内には人形がたくさん奉納されていた。

    粟島堂 
六孫王神社
当堂は西山浄土宗に属する宗徳寺の一堂で、道内に粟島明神を祀することから粟島堂の名で知られている。
寺伝によれば、応永年間(1349~1428)南慶和尚が紀伊国(和歌山県)淡嶋から淡嶋明神を勧請して上洛する際、当地あたりで急に御神体が重くなったので神意としてここに祀ったのが起こりといわれている。
以来、宗徳寺の鎮守社。粟島神社として祀られてきたが、明治時代の神仏分離により粟島堂と改められた。
粟嶋明神は、古来より婦人の守護神とされ婦人病平癒や安産祈願に御利益があるといわれ、藤堂にも婦人の参拝者が絶えない。
与謝野蕪村も当堂を訪れ、娘の病気回復を祈願した。
そのとき読んだ句が境内石碑刻まれている。
また、当堂北の庭内にある石灯籠は、応永二十八年(1421)刻名がある石仏が用いられている。

                         京都市
京都市の案内板にこう書かれていた。

六孫王神社
(道ばたの看板。役に立たなさそうでいいなあ
六孫王神社
(こんなお店も少なくなった)
六孫王神社
(兒水不動明王)
六孫王神社
(泉がある)
六孫王神社
  六孫王神社

<明王院>

粟島堂を出て、リーガロイヤルホテルに入った。
ここはフレッツスポットのアクセスポイントである。
一宿一飯の義理で、ホテル内のレストランで夕食を食べたが、メニュー説明付きの、肩が凝る夕食となってしまった。
しかしそのレストランではスポットが繋がらず、結局ロビーでしかつかえなかった。それならレストランに入らずロビーで接続すればよかったと思ったが、もう手遅れであった。ロビーからメールを二つほど打ち込んだ。

ここリーガロイヤルホテルは、新撰組の陣地があったところといわれ、それを示す碑がホテル正面右に建っている。
ホテルを出て塩小路通りを駅に向け歩くと、道祖神、明王院とかなり古そうなお堂が続いている。
折から、ここ京都はNHK大河ドラマ「新選組」の舞台となっているのであちこち新撰組の幟が立っていたり、ゆかりの寺社はそれをアピールしている。
ここ明王院は、「新選組まぼろしの屯所」であったと書かれていた。

ところで、「新撰組」という字は「新選組」と書かれているところもあり、これはどちらだろう。NHKは「新選組」と書いている。こちらのほうが正しいのかな。

この日の歩きは、ここ明王院で終わった。

六孫王神社
(明王院。ここは「新選組」)
六孫王神社
(道祖神)
六孫王神社 六孫王神社
(入り口の道祖神)

城南宮

さて、京都市内の歩きも桂川縁の神社、城南宮を残すだけとなった。城南宮
人間ドックが昼までかかったので、昼を食べてからと思い近くの喫茶店に入った。
昼食を食べ終わって、国道1号線を南に歩いた。
暑かったので自動販売機でジュースを買おうとしたら、財布がない。あれっと思い、ディバックやカメラバックを探したがない。
いつも財布には余りお金を入れていないので、金額的にはしれていたのだが、カード類の再発行が鬱陶しい。あちこち探したがないので、食事をした喫茶店に戻り聞いてもなかった。あきらめかけたときにふと見ると九条警察署の看板があった。もうここに行くしかないと、中に入って遺失物係を案内してもらい部屋にはいると、見慣れた濃緑色の財布とカード類が並べられていた。
係の人が電話中だったが、話の途中で、
「あ、来ました来ました、本人が来ました」といって笑いながら電話を切った。
「今銀行に問い合わせていたところです。よかったですね。これを拾った方がつい今しがた帰ったところです」
「そうですかすみません。何というお方でしょう?」
「その方は、もう名前も何も言わなくていいですといって帰られました。親切な人に拾われてよかったですね」と、カードやお金の確認をしてくれた。
返還してもらうための手続きをしたあと、「城南宮へはどのくらいかかりますか?」と聞くと、
「それほど時間はかかりません。1時間もあれば着くと思います。行くまでにラーメン屋さんがたくさんあるのですぐわかります。あのそのラーメン屋さんでも○○がおいしいですよ。△△は、少し味が悪いです」と、親切にラーメン屋指南をしてくれた。ラーメン屋の名前は、きちんと聞き取れなかった。
しかし警察がすぐ目の前にあってよかった。
これも先日来、あちこちにお参りした御利益かな。でも御朱印はもらったが、賽銭はどこの神社にもごくわずかしか入れなかった。そのしっぺ返しをうけたのかもしれない。

城南宮へ、教えられたとおりに国道1号線を南に下り、2月とは思えない暖かさの中を向った。
国道1号線を歩いていると、名神高速と交差する。
その下をくぐると、城南宮はまもなくである。大きな看板が出ていたのですぐわかった。
その看板の前を過ぎ、左に曲がると境内が見えてくる。


城南宮は、新熊野神社や熊野神社のイメージがあり、もっと古い感じかなと思っていたが、広くきれいで新しかった。
建て替えられて、造りはすべて平安朝のものと同じにしているという。端正な美しさがある。

社務所に朱印帳をあずけ記帳をお願いし、大きなディパックを背負っていたので、庭園入口の料金所に預けた。
かわいい巫女さんが快く引き受けてくれた。
庭園「春の山」からはじまる「平安の庭」、「室町の庭」、「桃山の庭」、そして」源氏物語花の庭」を順に見た。この庭園はなかなかのものである。
やはり離宮としての、グレードを充分に今に引きついでいる。手入れも良く行き届き気持ちがいい。
しかし、案内パンフレットの文章は、非常に難しく読み辛い。
もっと平易なわかりやすい表現と漢字にして欲しい。


<城南宮由緒>

城南宮の御鎮座は、上古、神功皇后(息長帯日賣命 おきながたらしひめのみこと)が、軍船にたて給うた御旗を、八千矛神(やちほこのかみ 大国主命)の御霊を憑けて当地に納められたことによる。

そしてその御旗の、日月星の御紋章が即ち当城南宮の三光の神紋の由来である。桓武天皇延暦十三年(西暦七九四年)の平安京遷都にあたり、国常立尊を合祀し、以来都の南方に鎮まり国守護り給う城南明神と仰がれるに至った。
平安朝の末期白河上皇は、賀茂川流域の水郷の当地を選んで城南(鳥羽)離宮を造営し院政を執られたので、一時は都の如く賑わい、なかでも秋の祭礼は行粧華麗に行なわれた。
更に、院や上皇は、熊野を初め物詣でにあたっての方除けのための御幸や精進所にあてられたことは、当宮の方除信仰を平安の昔にみるものである。

源平の時代を経、後鳥羽上皇が、城南宮の流鏑馬に事寄せての鎌倉幕府追討の承久の変以来、鳳池荘観を極めた離宮の建築群も次第に衰退し、応仁の乱に至って全く荒廃してしまった。
然し、城南祭と方除け信仰は後世に承け縦がれた。

江戸時代亨保六年九月霊元上皇修学院御所御幸に際して、風雨の難無きよう七日間の御祈祷を仰せられ、文久元年皇女和宮様関東御下向の道中安泰の祈祷、文久三年四月孝明天皇石清水行幸の途中御休想御拝あらせられて、菊花御紋章の吹散一旒を下賜せられ、尓来正月五月九月恒例の御代拝が立てられるなど、皇室の崇敬旧に復すとともに、京洛畿内の衆庶の信仰次第に篤く、「域南離宮社」「方除の城南宮」と親しまれた。慶応四年三月明治天皇大阪御親征行幸の途次亦当宮拝殿に御駐輦親拝あらせられ、大正五年四月貞明皇右石満水行啓の際神苑に駐輿御休休憩遊ばされ、近くは昭和五十五年三月浩宮様御学友と御入洛のおり、御参拝、曲水の宮を御覧遊ばされた。
明治十年延喜式内真幡寸神社と公定されたが、昭和四十年従来の社号「城南宮」に復している。

神威愈愈高く、普請、造作、転宅、旅行など方除けの神との信仰益々広く全国に行きわたり、家内安全、交通安全、安産、病気平癒とご祈祷の参詣者で終日賑わっている。

    社頭祝         後鳥羽院御製

      つたえくる 秋の山辺のしめのうちに 祈るかいある 天の下かな

    祈雨社頭祝      摂政藤原良経
 
      尺の戸も 神の恵みにうるうらし 都の南宮居せしより
      
                                (城南宮案内パンフレットより)

城南宮 城南宮
(国道1号から最初の鳥居
城南宮 城南宮
城南宮 城南宮

城南宮を出てから、桂川にカヌーをおろせるか確認に行った。途中広い公園があった。
鴨川、桂川ともに橋が掛けかわり、そこかしこで大規模工事をしていた。
桂川河川敷を公園のように整備していたが、ちょうど橋のたもとにテント生活をしている人がいて、そのまわりまでエ事は進んでいたがテントの周辺は残していた。このあとはどうするのだろうか。結末が少し気になった。

このあたりは幕末においても興味深いところである。
城南宮から少し西に歩くと、鴨川にかかる小枝橋があるが、この橋のあたりで明治元年(1868年)1月3日に戌辰戦争の発端となる鳥羽伏見の戦が始まったという。真新しいパネルと「鳥羽伏見の戦」の石碑が建っていた。大阪から京都へ兵を進めた幕府軍(会津、桑名軍)は、城南宮に陣取った薩摩藩とこの小枝橋付近で衝突した。薩摩藩の大砲により、城南宮の南にある御香宮神社に陣取った薩摩・長州・土佐藩と、伏見奉行所に陣を構えた会津・新選組などの幕府側が、戦を繰り広げることになったのである。
ちょうど今、NHK大河ドラマ「新選組」をやっているので、いつかその戦闘シーンも出てくるだろう。そのシーンの始まりがここ小枝橋である。一般民衆は、この戦いをどう見たのだろうか?

小枝橋を渡ったあと、鴨川土手を下流に向かって歩いた。やたらとカラスが多く鳴き声が賑やかであった。
木という木には、カラスが鈴なり状態で止まっていた。
土手にはスクラップ工場などがあり、お世辞にも綺麗なところと言い難い。
川そのものも、鴨川はまずまずだが、桂川はあまりいい川でなかった。
鴨川にしても、上流ではかなり透明感がある川だが、ここまで流れてくるとかなり水がよどみ汚くなっている。桂川はカヌーをおろせるような所も少なかった。
都市の川を維持するのは大変だが、これからはきちんと環境を整備していって欲しい。単に護岸を綺麗に整備すると言うのではなく、人々の意識も含め、基本の所での環境整備が必要である。

熊野詣でに向かう場合、位の高い人は、ここ城南宮近くの桂川から大阪の天満に向かったのだが、庶民はもう少し下流の大山崎からという。ならば私もそこからおりることにしよう。桂川の川原は木がおいしげり水深も浅く、何よりも水が汚かった。
ここから船を下ろす気も失せた。川面では、鴨が数羽遊んでいた。

これで、京都の態野詣ルー卜は一応歩いたので、次は淀川をカヌーで大阪まで下ることになる。


城南宮
(城南宮近くの公園)
城南宮
(都市の風貌に変わっていく)
城南宮 城南宮
(小枝橋たもとの戦跡碑)
城南宮
(鴨川土手。ここまで来ると水も濁っている)
城南宮
城南宮
(桂川。おもわず、うーーん汚い)

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