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熊野川下り | |||||||||||||||||||||||||
<熊野川下り> 本宮は大斎原の前を流れる十津川は晴れ渡った日の光が川面で反射しきらめいている。 カヌー日和である。 フジタKG-1を組み立てた。非常に気に入っているカヌーである。軽くて乗りやすくスピードも出る。 組み立てが終わったのは、一時であった。 河原でおばさんが二人、のんびりと野菜を洗っていた。これは紀ノ川などでは見られなくなった風景である。 ずっと昔からの景色で、この景色を続けることが大切なのである。 そんな歴史を抱えた川は、大きく蛇行しながら下る。北山川ほどではないが、かなりカーブがある。 途中やはり浅瀬が多く、何度か船から降りた。 小津賀を越える当たりからは、水深もあり、快適に下ることができる。 途中、案山子がたくさん立っていた。 鵜除けのものだが、たくさんの鵜がその案山子の下で羽を休めていた。 どうも余り効き目はなさそうである。するのならもっとリアルにする方がいいかもしれない。 橋を何本か過ぎ7kmほど下ったところに、発電所があり水が大量に流れ出ている。 いつもならここは泥濁りで暗澹たる気持ちになるのだが、この日は濁りもなくきれいであった。 ここで昔ブラックバスをよく釣った。 発電所を越える辺りからさらに水量も増え、快適な下りとなる。瀬もところどころにあり、楽しめる。 発電所から4kmほどで、北山川と合流し、いよいよ熊野川となる。 一時、新宮川と呼ばれ、物議を醸したが、行政のセンスが問われるのはこんな時だろう。 熊野川は熊野川なのである。新宮川ではない。 川を下りながら思ったが、下りは流れがあるのでいいとしても、次に本宮まで船を上げるのは大変であっただろう。 風が吹き上げなければ、人力で上げる以外方法はなかったはずである。 この熊野川は谷が迫っているので、川下から吹き上げる風が強い。 したがって、三反船がかなり上まで帆を上げ遡れたが風がなければたいへんであったろう。 プロペラ船ができて、その役割を終えたが、川筋に帆がはためく姿は想像しただけでも楽しくなるとともに、昔人の苦労を思う。 私が子供のころは、まだ筏があり、河口に向けて下って行った。筏乗りが休憩しているあいだに、子供たちがふりちんで筏の上で遊んでいた。のどかな時代であったが筏乗りにとっては過酷な労働も強いられたのである。 そのあたりは、宇江敏勝さんの、「青春を川に浮かべて」にくわしい。時代は変わって、筏は観光用になり、プロペラ船はジェット船に変った。道は広くなり、車でなら新宮からは1時間ほどで本宮に着くようになった。 熊野川は、合流点から25kmほどで川口である。 途中いくつか滝がある。 昔は橋や道がなく川岸の景色は今よりはるかによかったに違いない。 そんな景色を眺めながらの川下りは熊野詣での楽しみのひとつであったろう。 熊野川に変ると、急に水量が増し流れも速くなる。 熊野川町日足を越えるころから大きい瀬があり、カヌーマラソンでもよく沈する難所が連続する。 合流点から志古までは、観光用のジェット船と出会う。ジェット船走行の際の波に気をつけながら漕いでいく。 日足からは、ほぼ3時間ほどで河口に着く。 昔はダムもなく、川の流れがきつかったのでもっと速く着いたのではなかろうか。 途中に、赤木川、高田川の2本のすばらしい水を供給する川が熊野川に注いでいる。 この2本の川ももう少し水深があれば人気が出るだろう。 河口に着くと、右手がすぐ速玉大社で、神社の杜が迎えてくれる。 この河口の河原には、移動式組み立て家屋が軒を連ね、商いをしており、大水が出ると家ごとたたんで避難したという。 私が子供の頃にもあったはずだが、何故か貸しボートの記憶しかない。 その組み立て家屋は、今ではイベントの時などに展示されるだけである。
じゃあ、熊野詣での時はこの熊野川をどう利用したかというところが気になる。 やはり、熊野詣での際は、この熊野川を利用したようである。 小山靖憲氏の、「熊野古道」によると、 1109年に藤原宗忠が日程を『中右記』で、昼頃本宮を出て 「船指下人」(船頭)の巧みな棹さばきで 新宮には4時頃ついている。一行は、新宮から那智に参拝し、また新宮に戻り、再び熊野川を、今度は遡っている。 朝6時頃出発したが、雨が降ってきてずぶぬれになり、紀和町和気(熊野川町日足の川向かい)で仮泊している。 明くる日6時頃和気を出て10時頃に本宮に着いている。 宗忠は、 「船指しら棹を指し、船に伏して音を揚げ大呼す。指舟の体、誠に以て絶妙なり」と表現し、熊野川船頭の腕の良さをほめている。 4時間くらい、気合いの大声を上げながら流れに逆らい棹さしのぼり続けるのは、大変であったろうと思う。 藤原定家の場合は、本宮新宮間を熊野川を使い、那智山からは、雲取りを越え、本宮まで行ったようである。 室町時代の北野殿記録には、「難風(暴風)」が来て、「生涯きわまれり(命もここまで)」という経験をしている。他にも、後鳥羽院も同じ目に遭っている。 いずれにしろ、ここ熊野川はひとたび機嫌が悪くなると、往き来する人を恐怖に陥れたのである。 しかし、いい服を着ている身分の高い人が、強風や瀬に恐れをなして、船縁にしがみついている様を想像しただけでも愉快になる。 ![]() 確かに、熊野川の谷を渡って吹き上げてくる風は、カヌーでも押し戻されるくらい強烈である。 長い距離を漕いできて、あと少しというときに、海からの風が吹き上げてくると、疲れ果てる。 当時の船頭は重労働だっただろう。 ともかく、今回熊野川ルートを漕ぎ下れた。 景色は、ほとんど当時と変わっていないと思う。護岸もコンクリが少ないのがうれしい。 今回の世界遺産登録は、この熊野川も含まれる。 今以上にいい形で、後世に残していくためには、世界遺産登録はうれしいことである。 熊野三山は、この熊野川抜きでは語れない。 ▲ページトップに戻る
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