|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小雲取越え~大雲取越え | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<小雲取越え> 那智大社から大雲取越えで小口に出、本宮へ向かう古道のルートが小雲取越えである。 ![]() 本来は、那智大社から本宮大社まで戻るルートであるが、今回は本宮から小口に越えた。当時は熊野川河原にある本宮大社(現大斎原)から舟で新宮に下り、海岸の古道を那智大社に向かったとあるが、本宮から小雲取りを越えて那智を目指したものもたくさんいたはずである。 湯峰王子から湯峰温泉、渡良瀬温泉、川湯温泉と3つの温泉を抜け、小雲取り越え起点の請川下地橋バス停までは約4kmほどである。 冬のさなかの温泉場は、温泉から立ち上る湯気がきれいで情緒がある。 川湯温泉の、途中の川原では正月祭りのなごりの、張り子が大塔川にかかっていた。 川湯は1000人が一度に入れるという、「千人風呂」が有名である。 川湯から請川に行く途中の国道で、電話線を渡っていく猿の軍団に出くわした。 ![]() 「猿のケーブル渡りや。おーい、おーい。こっちへ来い」 と叫んだ。私もこちらを向いてポーズをしてくれないかなと思ったがだめだった。 しかし彼らは昔のように隠れるように逃げるのではなく、悠然としていた。 猿の世界も徐々に都会化しているのか? 請川を少し登ったところで、急に展望が開けるところがあるが、そこからの見える大峰山系や眼下の熊野川眺めは素晴らしい。これが夕暮れになればもっと素晴らしい景色になるだろう。 請川から1時間ほど歩くと、松畑茶屋跡がある。 現在は周囲を杉林に囲まれ、茶屋跡を示す柱が立ち、間伐材で造った椅子が6脚ほどあるだけである。 石垣が周囲に残っているが、その規模からして、往時は大勢の旅人で賑わったことがうかがえる。 伊勢路との合流点(万才峠)が近くにあり、伊勢との行き来の宿場としても栄えたであろう。 ここは、昼食などの休憩によい。 茶屋跡から30分ほど歩くと、百間ぐらに出るが、ここは眺望が大きく開け、熊野の美しい山々、野竹法師、果無山脈、大塔山系などが一望できる。 奥熊野の素晴らしさに圧倒させられる。 峠近くの如法山は標高610mあり、藤原定家はこの山を紫金峰と称している。 小雲取り越えの山道はきれいに整備され、ゴミもない歩きやすい快適な道が続く。 また適当にアップダウンがあり、人に優しい道でもある。 百間ぐら 百間ぐらを越えるとほどなく賽の河原がある。 なぜこういうところに石積みがと思い調べると、ここで武蔵の国川越の若い僧がオオカミに襲われ絶命したという。小さなお地蔵さんの下に積まれた石の数は、僧の弔いと志半ばで倒れた人々の鎮魂であり、あるいは人々の旅の安全への祈りだったかもしれない。 石堂茶屋跡 しばらく行くと、きれいな屋根が見えてくるがそこは石堂茶屋跡である。 石堂茶屋跡はきれいに整備され、ゆったりと休憩ができる。 その昔、ここの宿場に泊まった客は、吊り天井の罠で殺され、金品を奪われるという物騒な噂が流れたという。 案内板には、繁盛を妬んだものがその噂を流し、営業を妨害したのではないかとのことがかかれている。 コーヒータイムにちょうどいい場所である。 案内では水場があるということだが、水場はあるものの流れる水は濁り、飲むことはできなかった。 石堂茶屋跡を過ぎると、上りが続き最も標高の高い桜峠を越える。 峠を越えてすぐに桜茶屋跡がある。 この茶屋は明治末年までここにあったといわれる。 その昔山桜が多く自生していてこの名前がついたというが、この茶屋跡から見下ろすと小口の集落と赤木川の蛇行した流れが目に入る。そして越前峠、大雲取山が壁のように見える。 桜茶屋跡を過ぎると急峻な下りが続き、日ごろの運動不足がよく分かる難所である。 その難所の所々に高さ1.2Mくらいの歌碑が建っている。 これは昭和59年(1984年)に設置されたもので、故事を引用、またはその場所の風土を歌った和歌が刻まれている。じっくり読むと味わい深いものばかりである。 桜茶屋跡からひたすら下り、椎の木茶屋跡すぎをやっと田畑が見えてき、その坂の麓にお地蔵さんがある。 長い道のりを歩いてきた旅人を癒すかのように、あるいはこれからの急峻な坂道の安全を祈るかのようにひっそりとたたずんでいる。 そこを過ぎるともう小口の村で、民家がある。 民家の間を抜けると赤木川で、昔はここに渡しがあり、「小和瀬の渡し場」として行き来の人々を舟で送っていた。 今は頑丈な吊り橋がかかる。 ここが本宮からの小雲取り越えの終点であり、大雲取りを越えてくると、小雲取り越えの起点である。 近くには小口自然の家がありキャンプなどができるようになっている。
<大雲取り越え> これまで和歌山県内の九十九王子をくまなく巡ってきたが、最後の難所が大雲取り越えである。 ![]() 小雲取り降り口の小口から那智山へのルートを歩いた。 当日は、天気予報は曇りのち雨ということであった。 雨が降らないことを祈りつつ登りを開始した。 建仁元年、藤原定家は那智山方面から、本宮まで越えたときの模様を、 「終日嶮岨を超え、心中夢のごとし。 未だかくの如きことに遭わず。 雲取・紫金峰(志古峰)、手を立つるごとし (手のひらを立てた形=急坂)」 と書いている。 このとき定家は雨でずぶぬれだったという。 輿に乗り担がれての道行きでも大変だったろう。担ぐ人も疲れたであろう。 円座石(わろうだいし) さて、歩き始めて十五分ほどで、円座石(わろうだいし)がある。円座石は、大石が四つあり、苔むしていかにも歴史をうかがわせる雰囲気で鎮座している。わろうだとは、昔の円形の座布団のことで、大石の上に円形の敷物に熊野の神々が座って談笑したり、お茶を飲んだといわれる。 大石には梵字三字(阿弥陀仏・薬師仏・観音仏の三仏の意味)がほられ、このあたりを神のお茶屋所といわれてきた。 古道沿いの林の中は、石垣があちこちにあり、民家などの家があったことをうかがわせる。 ガイドブックにも旅籠の跡として紹介され、十数件が軒を連ねていたということで、往事はかなり栄えていたことがわかる。 今でいう道の駅が所々にあり、歩き疲れた足を休めたのであろう。 今は杉林となり、光も少なく、古道の雰囲気が増幅されている。 今まで古道を歩いていても、すれ違うパーティはほとんどなかったが、今回の大雲取り越えは数組のパーティとすれ違った。写真の奥駆けの山伏さん一行は、那智山から本宮まで40km近くを1日で一気に歩き通すという。 円座石から越前峠までは、標高290mから一気に870mまで登るため、急峻な坂道が続き日頃の運動不足がこたえるルートとなる。小雲取りの坂道は、疲れてきた頃に平坦路があり歩きやすかったが、大雲取りの坂道は登りの先が見えてなお坂がいつまでも続く。 これは気分的に疲れる。その疲れをいやしてくれるのが、苔のからみついた石畳や古木のたたずまいである。 途中に楠の久保旅籠跡がある。周囲は石垣で囲まれている。 建物跡地は杉林になっているがそれらの石垣を見ていると、いにしえの人々が旅の装束でざわめき歩く姿が浮かぶ。 越前峠 長い坂をあえぎながら登り詰めると越前峠につく。 標高870mである。 ちょうど正午であったので昼食にしたが、3月とはいえ標高も高いせいで気温も5度しかなかった。 ![]() 寒さが厳しく動いていないと冷え込んでくるため、食後にゆっくりする間もなく、次の舟見峠へと歩を進めた。 このころから雨が降り出してきた。 この雲取り越えにまつわる伝説が色川にある。 この雲取りの山中に出没した「ひとつだたら」という怪物の話が伝わる。 ひとつだたらは那智権現の神宝を奪い、熊野詣での旅人を襲って路銀をかすめることもしばしばであったと「紀伊続風土記」に書かれている。 この怪物、というより大男であったと伝わる山男は、色川の弓の名人狩場刑部左右衛門に討ち取られる。 狩場刑部左右衛門はその手柄により、那智山寺領の山林を授かり、近在18村の村民に寄進したという。 この話には後日談があり、明治時代にこの山林が新政府に没収された。 村民は、この山林が狩場刑部左右衛門から授かったものと説き、明治43年、再び村民の手に戻ってきたという。 この道を歩く場合は、時間が許せば那智山からのぼり、小口の自然の家に泊まり明くる日に本宮まで歩き湯峰温泉か川湯温泉で汗を流してリフレッシュするのがいい。 熊野の奥深さを実感する上でも是非ともいにしえを思いめぐらしながら、ゆっくりと歩くことを勧める。 色川の辻 快適な林道を越えると色川の辻にでるが、ここは昼でも暗くこの一帯を空腹のまま歩けば山の餓鬼神ダルに憑かれると言い伝えられてきた。 道ばたの地蔵さんにはそんな悪霊封じの目的もあるのである。 舟見峠 色川の辻をすぎると、亡者の出合いと呼ばれる下り八丁となり(私たちには上り八丁であった)舟見峠に着く。 ここからは熊野灘が眼下に開け串本方面まで見渡せるのだがあいにくの雨で何も見えなかった。雨は次第に粒が大きくなってきた。それでもしばらくは傘なしで歩けたが、いよいよ本降りになってきた。 天気予報は当たってしまった。すれ違うパーティも多くなってきた。 越前峠からいったん下り、せせらぎのある谷に降りた。谷を流れるせせらぎの水は澄んでいたが、雨粒が次第に大きくなるのでその流れを楽しむ余裕がなかった。 道は苔むした石畳が続いているが、石が雨で濡れているのでスリップしないように気を使いながら歩いた。 谷を抜けるとまた坂となり、石倉峠に向かうが途中の道には様々な形をした石が道をふさいだり、山肌に突き出たりしている。また枯れた大木に苔がびっしりと生え、さながら前衛美術のようである。 ガイドブックには、このあたりは大塔山系の景色がすばらしいとあるが、雨でかすみ近くの山すら見ることができなかった。 石倉峠 石倉峠を下ると川が合流し、山裾に地蔵茶屋がある。 地蔵茶屋は石倉峠の登山口にあった茶屋跡に、泉州は堺の行商人が寄進した33体の地蔵を安置したお堂がある。33体あるはずであるが、そのうちの1体が行方しれずということで、今は32体が安置されている。 階段下の小さな池には、鯉が泳いでいた。 地蔵茶屋 地蔵茶屋の道を隔てたところに、休憩所があり峠越の疲れをとった。ここから道は林道を歩くことになる。 林道の山側地肌のむき出したところには、おもしろい形をした岩が所々つきだし、よく見るとそれぞれが何かににており、楽しませてくれる。 これまで歩いてきた山道の石畳にしている膨大な量の石をどこから持ってきたのか疑問に持っていたが、古道と並行して流れる川には手頃な石がたくさんあった。 この川の石を運び上げ、歩きやすいように積み上げてきたのであろう。
▲ページトップに戻る
|