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平辻~大股~伯母子峠~腰抜け田 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
平辻 護摩壇山からの下りが想像していた以上に急で、山歩きで膝痛がでるものにとってはかなりきついルートになる。 よちよちと下りを続け、平辻から50分ほどで大股の集落が見えてくる。 膝がほぼ限界まで来ていたので、民家が見えたときはほっとした。 ところで、小辺路ルートは、交通アクセスも悪く開発されていないために、昔の道がほとんど残っているという特徴がある。 古く荒れた道もあるから草に覆われて、歩きにくい所や危険なところがある。 しかしそれはこの道のマイナスではなく、むしろプラスになっている。 こうした道行きは、景色もさることながら歩きやすさと疲れにくさが大事なことで、適当にあれた山道は、コンクリートの道より遙かに疲れが少ない。 特に今回のように、ブナや杉の葉が積もっている道は、落ちた葉がクッションとなって、坂道が続いても歩きやすく疲れにくい。 この日は雨が降ったが、木々が傘の役目を果たし、思ったほどには濡れなかった。 これは旅人にとってうれしいことである。 中辺路ルートは、観光宣伝に利用されて、歩く人も多いが、小辺路ルートはその険しさも相まって敬遠されるのか、すれ違った人は一人もなかった。 民家が見えて、ほっとしたのもつかの間で集落まで、そのまま真下に降りていく感じで坂が続いた。 左膝が弱い私はたちまち、痛さの下りとなってしまった。 よちよちしながら、皆に遅れまいとがんばった。 ただし、膝が笑ったのは私だけではなく、よちよち組が他にもいたのですくわれた。 この道がコンクリートであったら、後ろ向きで歩く羽目に陥ったであろう。 未舗装の山道で助かった。 確かに、1000から1200mの山を三つも超えなくてはならず、交通アクセスも悪いためかなりハードな歩きとなる。 今回は、古道歩きではじめて泊まりのあるコースとなった。町石道を歩き、熊野古道小辺路ルートを歩き始めたが、今回は高野山から十津川の三浦口まで歩いた。今回は初めて泊まりのあるルートとなった。 大股 坂を下りきるとトイレのあるバス停があり、大型バスが一台止まっていた。時間は4時50分であった。 10時半に歩き始めて約6時間半かかったことになる。村の入り口には小さな祠が並んでいた。 今夜の宿である、津田旅館さんの看板が橋のたもとにあった。 橋を渡って坂道を見ると、上から登山の格好で中年集団が下ってきていた。 すれ違ったおりに聞けば、伯母子岳に登ってきての帰りという。伯母子岳にはたくさん登る人があると聞くが、古道歩きの人はどうだろうか。 津田旅館では、剥製の鹿が出迎えてくれた。 着いてすぐに、津田旅館さんの案内で村営の温泉ホテルの風呂に入った。 割引券をもらい300円で入湯できた。 ホテルは3キロほど下流にあるので旅館のご主人に送迎してもらった。 雨はこのころ上がった。ホテルの近くに、古びた阿弥陀堂と瀟洒で小振りな神社があった。 神社の名前をホテルのフロントの女性に聞くと、 「勝手神社といいます」 「勝手神社?ほんまですか?」 「はい、よく知りませんがこちらではそういいます」 もう聞かないでくれという感じでこたえてくれた。 ホテルの風呂は綺麗でいい湯であった。 足が張っていたので、ジェット噴流でマッサージした。 気持ちが良かった。 津田旅館での夕食は、イノシシ鍋とアマゴや山菜の豪華なもので、たくさん呑んでしまった。 特別メニューは、自家栽培のワサビの芽で、ピリッとしておいしかった。 楽しいご夫婦が経営する旅館で、宴会が一段落した頃、宿のご主人に一杯の席に来ていただきいろいろ話を伺った。 「イノシシを追うのは、紀州犬の雑種がいい。人間を見てほえる犬はあかん」 なるほどなるほど、これはよく分かる。 「鮎は琵琶湖産は背びれが高い。海からの鮎は鼻管がつけやすい。釣っているときの違いは、湖産は何回もアタックするが、海は一回だけである」 これはやはり長年釣ってきている人だけが分かる。 「いい川の鮎は、釣って網へ入れるときの香りが違う」 うーん、このあたりになると全く判断しにくい。 鮎釣りを全くしたことがないものにとっては、未知の領域である。 ほかにもイノシシや熊の話を伺った。 鹿の脳みそもおいしいとのことで、冬にここへ、それらの食体験をしに来ようということになった。 旅館の前の川は、いい瀬がありアマゴが口を開けているような感じがする。 しかしこの川もダムができてからは魚も少なくなったという。ウナギも上がれないので、当然減ってくる。 アマゴは、ダム湖が大きく産卵場所の川が良ければ絶えることもないみたいだが、ウナギなどはせっかく生まれて帰ってきても、河口で幼魚の時代に捕獲されて食べられてしまう。生き残ったものもダムで上れない。 いつかは、この川のウナギがなくなる。 獣でいうと、鹿やイノシシが増えて、熊などが減っている。 私たちは自分自身を守るためにも、これらの現実をどうしていくかということを、真剣に考えていかなければならない時代に来た。手つかずの自然を残すといわれているが、手をつけないでは自然は残せないという気がするのである。 手つかずの自然をというのであれば、この熊野の山中にオオカミやカワウソが存在しなくてはならない。 現に明治まではオオカミが存在し、鹿などの増えすぎを制御していた。カワウソも、いるいるといわれながらまだ個体は発見されないでいる。 天敵のいなくなった大台ヶ原の鹿は、増えすぎて生態系のバランスを壊しかねない。 原生林の木も適当に間引き、次の成長を促す必要がある。 いい山なら、木は切っても30年経てば元に戻る。
伯母子峠越え 2日目は、昨日とうってかわり、いい天気となった。 実は、三浦峠からバス停まで、1時間の徒歩でスケジュールを組んでいたのだが、夜の宴会の際に宿のご主人から2時間以上かかるといわれた。そこで急遽予定を繰り上げ、朝早くに出ることにした。 そして新宮のO氏に回送を依頼した。 私は5時頃目が覚めた。 今日は、また1000m超の伯母子峠越えである。登りがきついということをさんざん聞かされていたので、気合いを入れて登りはじめた。 坂はやっぱりきつかった。 6時半に出発して、すぐ急な登りである。 体がまだ目覚めていないので、呼吸が乱れた。 ウオーミングアップなしの急坂に息が切れたのである。 40分程で萱小屋跡に着く。 更に50分ほどで歩くと檜峠で、ここはもう1140mになる。 道は標高が高いにもかかわらず、緩やかとなり快適な道行きとなる。 景色としては、まわりに木があり展望は開けない。 夏草山の山腹を軽くアップダウンしながら40分程で、伯母子岳と伯母子峠への分岐(1140m)にでる。 護摩壇山からのルートもここで合流しており、12kmほどで護摩壇山に行ける。 天気もいいので山頂へ行くか少し迷ったが、戻ってこなければならないとなると、時間のロスが出るので、古道のみを歩いた。 頂上に行けば、今日のように晴れていれば、護摩壇山、果無山脈、大峰山などの山々が望めるはずである。 この分岐からすぐに、仲間の携帯に着信があった。まさかこんな所で携帯が届くと思っていなかったのでびっくりした。 私の携帯はアンテナは立ってなかった。しかし圏外でもなかった。 萱小屋から少しの所の立木に「がんばれ中高年」と書いた落書きがあった。 木に直接の落書きはだめである。ここは世界遺産になろうとするルートなのである 分岐点から20分程で山小屋のある伯母子峠に着く。 急坂を登り切り、休む間もなくここまで来たので、小休止することにし、写真を撮り、コーヒーを湧かした。 もうここでは携帯電話での通話は無理であった。 地図ではここからずっと下りとなる。 すねが危ない私にとって、少しきつくなることを覚悟した。先ほどの分岐から、頂上越えで来るとここに来ると到着してはじめて知った。ならば頂上を踏んだら良かったか? 古道目的ではなく、山歩きとしては、護摩壇山からこの伯母子岳のルートが面白いと思う。 腰抜け田 ルートはさらに下る。 周りは植林された杉林である。30分ほど歩くと、伐採された後、植林された山肌を通る。 それまで木立の中を涼しく歩いてきたが、太陽が照りつけるところに出たので、一気に汗が噴き出した。 木陰のありがたさを知る。道は再び林の中に入り、涼しくなった。 そこから30分ほどで三田谷橋のたもとに降り立った。 12時近くであったので橋の下の涼しいところで思い思いに座り昼食にした。 弁当は、津田旅館さんが作ってくれたもので、おいしかった。川にビールを冷やしておいた。 30分ほど食事をし、再び歩き始めた。 三田谷橋を渡り、五百瀬の在所をトンネルを抜けて20分ほど歩くと、三浦口で、そこからは次回歩く三浦峠への道である。釣り橋が架かっている。 次回はここをわたって三浦峠を越えるのである。 帰りの道の途中、平維盛の墓と伝えられる祠がある。 元暦元年三月二十八日、維盛は若干27歳で那智の沖に身を沈めた。といわれるが、実際にここに墓があるということは、生き延びたのであろうか。 私はこそこそと生き延びた説をとりたい。 自ら海へ身を投げたといわれるが、まだ27歳、妻子への思いもあり、現世への未練もある。また那智の浜周辺は比較的遠浅である。 意外と宇久井から新宮あたりにあがり、熊野川を遡って十津川に隠れたのではなかろうか? そこからまもなく腰抜田の看板がある。 腰抜田は、南北朝の頃、北朝方から逃れた大塔宮護良親王が十津川郷に難を避け、五百瀬を通過しようとした際、荘司に行く手を遮られ、通行を認めるかわりに「家来か錦の御旗を置いていけ」と要求されやむなく錦の御旗を置いていった。その後親王一行に遅れた家来の村上彦四郎荘司の館に錦の御旗を見つけ、怒って荘司の家来を水田の中に投げ飛ばし、錦の御旗を奪い返した。 そのとき投げ飛ばされた家来が、腰を抜かしたのでその田を腰抜けだというようになった。と掲示板には書いてある。 腰抜田は明治の大水害で川底に眠ってしまったという。 今回はここまでで、昨夜にお願いしていた新宮のO氏に途中まで迎えに来てもらい、風屋まで出て、今度は橋本からの迎えの車を待った。
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