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上野王子跡~津井王子~切目王子~切目中山王子~岩代王子 | ||||||||||
<上野王子跡> 上野王子跡は、国道42号線から、海側の旧道上野漁港近くの名田漁民センターと土地改良区センターの間に石碑が建っている。 道の向かい側は堤防となっており、もう海である。 この王子跡もうっかりすると見落とす。 熊野御幸記に「うへ野王子野経也」と記されている。 海岸近くにあり、今まで山の中が多かったため、ほっと一息入れるにちょうどいい場所だったかもしれない。 いまは高い堤防が海と道路を隔てている。 幸い、国道からはずれたルートであり、少しは危険度も低い。 旧地は仏井戸であったが、火災に遭い、江戸期に現在の場所に移された。 紀伊風土記には、 「古道のそばにあり、上野王子の旧地也。井戸に仏三体あり、是古の王子の本地仏にして、回録に罹りしとき没したるなるべし・・・」 とある。 井戸仏の仏像は、地蔵菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩を1m位の石に刻み、それを最下段にして石を積み上げている。 <津井王子・叶王子> 津井王子は、叶王子と一緒に祀られているようである。 印南町の文化財にも「大字津井に”王子田”という小字があることから、この地に王子社があった。」とあるが私は見つけることはできなかった。 江戸時代初期にはすでに遷されていたようで、寛文年間に書かれた熊野道中記に、叶王子印南坂下り道の左とある。 津井王子社は、明治41年9月神社合祀政策によって、印南町山口の山口八幡社に合祀されたため、さびれた。 今は叶王子社跡碑と槙の木で当時の王子跡を忍ぶことができるだけである。 御幸記の津井王子について「和歌山県聖蹟」は、「津井川の流れに沿う細長い平地が田で、その西に接して、430,431が王子田と称されるもので、王子はここにあった」とある。 印南町の判断は、「津井の王子田、この地に王子社があったのではないかと考えられている」としている。 いずれにしろ、この辺に王子社があったのだろう。 場所も印南港を見下ろし、景色もいい。 ただし、道は相変わらず国道を行く。 印南は鰹節発祥の地 江戸時代のはじめ、今までになかった、25人乗りの大型船団が、紀州日高郡の印南港から勇壮にでてゆく光景がみられるようになった。カツオ漁場をさがして、九州あたりの海域まででかけていったという。 が、ある漁からの帰り、偶然にも土佐、今の高知県の足摺岬沖に好漁場をみつけた。 さっそく土佐に漁業基地がつくられ、カツオ漁がはじまるが、印南の漁師は、カツオを一尾でも多く釣りあげる事ばかりを考えていたのではなく、地元土佐の漁師に釣りの技術をも教えたのである。 ”土佐の一本釣り”として名高い漁法も、甚太郎という印南の一漁師によって伝えられたものなのである。 甚太郎は、また、腐りやすい初夏から秋にかけて大量に釣れるカツオを、いかに長く保存できるか、遠くの地へ送れるか、を考え続けた人でもあった。 その遺志は、子である二代目甚太郎に受けつがれ、彼の血のにじむような努力によって、延宝2年(1674年)に、燻乾法とよばれる技法をつかった、長期保存がきく本格的なカツオ節、つまり土佐節が完成するのである。 生節とよばれる製品が、それまでにもあったが、半乾きであり、保存には不十分なモノだった。 彼が考えだした燻乾法とは、カツオを背割りにしたものを篭に並べて釜で蒸し、小骨を抜いて”炊き納屋”とよばれる炉で乾かす。 さらに、あぶりいぶす作業を繰り返し、そのあとカビ付けをして日光で乾かすものであった。 同じ印南の与一という人物は、この燻乾法をさらに改良し、技術を伊豆に伝えて伊豆節ができ、焼津で焼津節となるのである。 このように、カツオ節の技術は紀州から全国へとひろがっていった。 保存がきき、旨さを秘めた天然の調味料としての評価はもちろん、”勝男武士”につうじることから江戸時代の武士に好まれたという。 現在は、”勝魚”の当て字による縁起良さから、祝儀にも使われることの多い、売れっ子である。味噌や醤油と同様、和歌山で生まれて世界の味になったのである。しかし和歌山の人は欲がなく、技術を伝えて「本場」をよそにとられている。 和歌山県人としてすこしくやしい。 <いかるが王子跡> イカルガ王子跡は国道42号線沿いにある。 倒産したらしいドライブインの道向かいにあり、鳥居をくぐり海岸を見ると、紀伊水道が大きく広がっている。 この王子跡も様々な変転があったようで、案内板が二つ並んでいるが、古い方は富ノ王子跡の説明をしている。 社は、これまで見た王子跡のどれにもないスタイルで、海を見て建っている。 ここがイカルガ王子の跡であるどうかは不明であるが、明治41年八幡神社に合祀されるまでの何百年間の鎮座地であることは間違いがないらしい。 このあたりは海岸沿いであり、起伏も少なく、海を見ながらゆったりと歩いたのではないかと思う。 社の広場から、陽光に輝く海を見ていると熊野の「陽」の部分を全身に感じる。 中辺路から本宮への「陰」の部分と、海岸筋の「陽」の部分は全く好対照である。 熊野詣の、人気の秘密は、このあたりにもあるのではないか。 富ノ王子跡を示す掲示板と、あたらしいイカルガ王子を示す掲示板が並んでいる。古い方は風化してかなり読みづらい。 <切目王子> 切目(切部 )王子は五体王子として格が高く、古い文献にも多く記されている。 印南町JR切目駅から国道42号線を西へ、切目川を渡り「豆坂」を越えると見えるこんもりした森に切目王子神社が構える。 境内にそびえるホルトノキは幹周約4m、高さ16m、樹齢約300年で県指定の天然記念物。 社殿をはさみ反対側に神木と伝えられるナギの木もある。 「熊野権現御垂迹(すいじゃく)縁起」によると、熊野の神が切目のナギのある渕に現れたとの表記があり、熊野詣の帰途人々はナギの葉を笠にかざし健康のまじないとしたと伝えられている。 平治物語によると平治元年(1159)、平清盛はその子重盛らを伴って熊野参詣の折、切目王子にて源義朝の挙兵を知り、王子社の神木梛(なぎ)の枝をそれぞれの左袖に付け都に引き返し討伐に成功している。 この戦で義朝を討った清盛は平家全盛への第一歩を踏み出すことになるのである。 五体王子ということで、上皇たちの熊野御幸でも切目王子が重要視されたことはいうまでもない。 ここにとどまり法楽を捧げ、歌会を催したことがさまざまな文献からうかがえる。 後鳥羽上皇がこの地で開いた歌会でしたためられた懐紙は「切目懐紙」として現存している。 また、裏には井戸があり、往事はここでのどを潤したのだろう。 定家の頃は、「切部王子」といっている。 日本の地名は、当てた漢字が時々というよりしばしば違っている。 和歌山にしても、昔は若山であったが変わってきている。 私はむしろ昔の漢字の方がより歴史的ないわれを文字に込めているような気がして、できれば昔のまま同じ漢字を当ててほしいと思う。現代でいえば市町村合併で消え去る地名なども多く、やはり文字の変化も時代の流れに合わさなければならないのかとも思ったりもする。 ともかく定家は、御坊に入ってからなだらかな道ばかりなので、ほっと一息ついたのではなかろうか。 しかし和歌会も開催されたので、忙しかったに違いない。 一行はここで宿泊している。 <切目中山王子> 中右記に「切部川」を渡り同山出る祓」とあり、当時からすでに小社があったと考えることができる。 現在の中山王子は中山でなく榎峠であり、「中右記」には「山出る祓」と山を越えて参拝しており、熊野御幸記には「山を越えて切部中山王子に参る」と記されている。 切目中山王子へは、切目橋からJR切目駅北のガードをくぐり、榎木峠を約1km程登っていく。 榎木峠から見下ろす海は、果てしなく広がり、美しい。 また神社入り口の手前に、宝院塔がある。 今の切目中山王子は、明治の頃、島田の「足神さん」を合祀したため、足の病気に霊験あらたかな神として草履や杖などが奉納されている。 足の宮と言われる由来は境内の案内板にある。 昔一人の山伏が熊野詣りの途中、島田まで来たところで 足が悪くなった。今の井尻谷あたりである。 痛む足を引きずりながら山伏はやっとのことで谷の入り口までたどりついたがとうとうそこで命絶えたという。 山伏の霊は里人らによってねんごろに弔われたが、不思議なことに埋葬した頭の上に大きな石が出てきた。 人々はそのことに霊力を感じ、その石を祭神として祀り、足痛を治してくれると信仰するようになった。 土地の人々からは「山伏さん」「やまっさん」とあがめられている。 明治の末、神社合祀の時、熊野九十九王子の一つである当中山王子社へ合祀されたがご本体は名杭の集落のはずれにある。 各地から草鞋や草履を持ってお詣りする人が多い。 また供えている草履をいただいて帰る人もいる。 <岩代王子> 岩代王子は、大巳貴命(大国主命)すなわち熊野飛龍権現を主神とした神社である。 国道42号線から分かれる古道を海の方に折れ、JR岩代駅の西踏切を越えた海岸にある。 当社については「為房卿日記」「中右記」「熊野御幸記」等に詳しく記録されている。 中右記では、 岩代王子に奉幣、石代を過ぎ了ぬ。 千里の浜に於いて昼養いの次、海水に浴す とある。 新古今和歌集には、 岩代の神は 知るらむ志るべせよ 頼むうき世の 夢の行く末 などとある。 定家の記録では、「磐代」となっている。上皇が来るというので、地引き網(当時はあったかな?)で魚を捕り、昼飯のおかずに献上したのではないだろうか? 海岸を見ているとそんな気になる。 私が訪れた時は海岸に何組もの家族がビニールシートを敷き、バーベキューをしていた。 熊野灘の大海原を前に、最高の気分であろう。 この王子は、明治41年神社合祀の際、移祀に関係したものが皆病に見舞われたので、ご神体を旧社に戻したという。 触らぬ神にたたりなしか。 紀州鉄道 紀州鉄道(別のページがあります)は、始発駅から終着駅まで12分の超ミニ旅が楽しめる鉄道である。 安珍清姫物語で有名な道成寺のある、日高平野をたった一両のディーゼルカーが、のんびりと走って行く。 JR紀勢本線の御坊駅から分かれて、日高川駅までの、南北3,4kmを結ぶ、日本一短い路線をもつ鉄道である。(日本で2番目になってしまったという) 営業距離も短かければ、駅数も、御坊・学問・紀伊御坊・市役所前・西御坊・日高川の6駅と少なく、保有車両も3台、職員9名、時速20数キロと、すべてにおいて”鉄道”のイメージを感じさせないほどに”ミニ”である。 JR御坊駅と、中心街をなんとか結びたい、と昭和6年(1931)に町の有志によってつくられたのが始まりという。 開業以来、御坊近郊に暮らす人たちの通勤通学の足としてはもちろん、「日本一のミニ鉄道に乗ってみたいな」と全国から訪れる鉄道マニアの人達や、 「駅名にあやかりたい」と縁起をかついで学問駅行きの乗車券をのぞむ受験生のファンを抱えもつなど、決してミニでなく”ビッグ”な存在でありつづけている。 今、環境問題が大きくクローズアップされており、路面電車の再評価がされている。 この紀州鉄道も省エネ交通機関のいい見本ではなかろうか。 いつまでも頑張ってほしい。 もしこれが、更なる省エネを狙い、ハイブリッドかバッテリー電車になれば最高ではないだろうか。 モデル路線として、国も補助金などを出してくれたらまた新しい展開が望めるのではないだろうか。 ▲ページトップに戻る
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