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丹生都比売命神社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
六本杉峠 歩き始めて1時間20分で六本杉峠に到着した。 137町石で、慈尊院の標高は100m弱であるから、約500m登ったことになる。 峠には標識があり、丹生都比売(にゅうつひめ)神社へ1.3kmと案内されている。 ちょうど三脚を持っていたので、セルフタイマーを使い記念写真を撮った。 一人で撮って一人で照れた。 写真を撮り終わった時に、夫婦らしきカップルがあがってきた。 ちょうど天野に向かって歩き始めた時だったので、言葉も交わさず先に峠を下りだした。 丹生都比売(にゅうつひめ)神社 天野の里のへの道は、落ち葉がつもり滑りやすい。 バイクの轍の跡があった。125CCくらいの軽いオフロードバイクであれば、このあたりを走るのにいい。 私のKLEでは少しつらいだろう。 そんな、石の多いアップダウンのある地道を下っていく。 20分ほど歩いて天野の里についた。 近所の奥さんらしき方と出会った。 「こんにちわ」と挨拶すると、「いい天気やね」と気持ちいい返事が返ってきた。 坂を下りてすぐに、「貧者の一灯お照の墓」の表示があったが、墓を見つけることは出来なかった。 墓を探している間に、峠で出会った夫婦連れに抜かれた。 このあたりには、たぶんリゾート地として開墾したような土地があり、しゃれた建物が数軒あるが、いずれも住む人が見あたらなかった。 その荒れ方を見ると、都会の人が夢抱いてここに来、果たせずじまいでここをあきらめた、そんな感じがするのである。 天野は、女人高野時代の悲劇のヒロイン、横笛が高野山の滝口入道を慕い、身を焦がし19歳で亡くなった里である。 丹生都姫神社の鳥居をくぐると赤い太鼓橋がある。 境内では、少しお年を召した二人連れが一組お参りをしていた。 境内の説明板には、 「祭神、丹生都比売命は天照大神の妹君とされ延喜式内大社である。空海がこの神の子、高野明神(狩場明神)が飼っていた黒白2匹の犬に導かれて高野山に登ったという話は有名で、以来この神社は高野の守護神としてしたわれている」 とある。 こんなところを歩く時には、犬がお供してくれたら楽しいと思う。 まして、弘法大師の時代はまだオオカミが闊歩していたので、犬がサポートしてくれれば心強かったことだろう。 神社を出、山際の民家の間をしばらく歩くと、「待賢門院の墓」の存在を示す看板があった。 どれか分からなかったがそれとおぼしき碑が、草むらの中にあった。 丹生都比売神社は、和歌山県北東部、高野山北西の天野盆地に鎮座する。 空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。町石道は神社背後の尾根上にあり、高野山への表参道である。 丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。いまでも町石道を歩くときここに参詣する。 境内には多くの仏教系の遺跡や遺物が残っている。 また、和歌山県・奈良県の各地で、高野山の荘園に丹生都比売神社が勧請された関係で、丹生都比売神社の分霊を祀る神社が分布している。 神社では国宝の銀銅蛭巻太刀拵を始めとする文化財のほか、本殿および楼門などの社殿が国の重要文化財に指定されている。 さらに境内は国の史跡に指定されている。 これらのうち本殿、楼門および境内は、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として町石道と共に、登録されている。 丹生都比売神社には空海への土地譲り伝説がある。 空海は、金剛峯寺の建立にあたって丹生都比売神社から神領を譲られたと伝わっている。 高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』があるが、これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者(高野御子神(狩場明神))に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。 その説話は『今昔物語集』等にも記載されており、これには丹生都比売神(丹生明神)の化身といわれている。 『丹生祝氏本系帳』には、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている。 空海の死後、その弟子達により丹生都比売神社の神領はさらに高野山の寺領となった。 丹生都比売神社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校で第4代執行の雅真の頃とされる。 丹生神社は全国に138か所もあるが半分以上が和歌山に集中していると言われている。 ここは紀州の丹生神社の総社である。 いずれにしろ高野山と丹生都比売神社は古くからの深いつながりがあり、歴史を積み重ねてきたのである。 境内東部には、鎌倉時代から室町時代に建てられた石造の五輪卒塔婆4基がある。高さは2.1メートルから3.6メートルあり、正応6年(1293年)、正安4年(1302年)、文保3年(1319年)、延元元年(1336年)の刻銘がある。修験行者の行事の模様をうかがわせるもので、和歌山県指定有形文化財に指定されている。 また大師堂跡、多宝塔跡もある。 ここ丹生都比売神社は毎年何らかの形で訪問している。 天野の里そのものが、隠れ里で昔の雰囲気がある。 白州正子さんも絶賛して天野に隠居したいと書いていた。 2016年4月29日に立ち寄り、フランス人のロビンさんのチェロコンサートを聴いた。
隠れ里天野の空気にマッチした、ロビンさんの演奏と音響であった。
最初はクラシック音楽で、途中では、美空ひばりや真田丸のテーマソングなども演奏してくれた。
観客のレベルに合わせた感じがする。アンコール曲は「さくら」であった。 山が深い里山の事寒さがつのって来、かなり帰った人もいが、心に残るいいコンサートだった。
二つ鳥居 二つ鳥居までの道は、ぐんぐん上り坂で、歩きにくさも相まって汗びっしょりの山道である。 途中で、先ほどのカップルを追い抜いた。 「お先に失礼します」 「えらい坂やね。息切れる」 「そうですね。こんなに急とは思わなかったですね」 私は一気に二つ鳥居まで歩いた。 二つ鳥居には、綺麗な休憩所があり、ガスバーナーを使い湯を沸かし、ティブレークした。 西の山々の少し上に陽が来ており、夕暮れの近さを告げていた。 ここで先ほどのカップルに追い抜かれた。 15分ほど休憩し、124町石にある分岐道まで行き、そこから南海高野線上古沢駅へ向かった。 駅への道は急な下りで、膝が痛くなるのを心配しながら歩いた。 道はもう薄暗く、足下を気遣いながら歩いた。 柿畑が広がりだしてから、ぽつぽつと民家が見えてきた。 谷の向こうに目指す駅が山腹にへばりつくように見えた。 しかし駅が見えてからが長く歩いた。 かなり深い谷におり、駅までの上りの急坂がきつく、歩き疲れた足に応えた。 駅に着いたのは、5時15分で、ちょうど10分待ちで上古沢発5時25分の電車が来た。 すれ違ったカップルも同じ電車であった。 「時間を知っていたのですか?」と聞かれた。 「いえいえ、行き当たりばったりです」 「ちょうどいい時間に来ましたね」 「はい、どちらからおいでですか?」 「泉大津からきました」 大阪からだとちょうどいい日帰りハイキングだろう。 20分ほど走った電車を九度山駅で降り、駅から車を止めた体育館まで歩いた。 もう日はとっぷりと暮れ、真っ暗であった。 車でリュックをおろしたのは6時45分であった。 12時45分から歩き始めてちょうど6時間となる。とりあえず、町石道の第一回はそこで終わった。
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