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上古沢~古峠~神田子安地蔵~矢立砂捏地蔵~大門 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上古沢から古峠 町石道180~大門までの、第2回目は上古沢から登った。車を、ドライブインカジカさんに頼んで置かせてもらった。 以前に180町石から歩いた時、上古沢に降りたがきつい下り坂であった。 今回はその急坂を登るため、気合いを入れ歩き始めた。 10時であった。 やはり登りはきつかった。 春の長雨にけぶる景色は綺麗であったが、急坂で一気に汗をかいてしまった。 途中、わき水をホースで出しているところがあり、休憩をした。水はおいしかった。 山が健康だと、雨が降らなくても枯れることなく綺麗な水を供給してくれる。 山を守ることは、川を守り、そして人を守ることでもある。 一時間ほどで、古峠に着き本来の町石道ルートを歩き始めた。 町石は、高さ3メートル弱の石柱である。 町石道について、あちこち調べると、文永2年(1265年)に高野山遍照光院の覚きょう上人が、それまで木の卒塔婆であった道しるべを、石造にしようと発案し、鎌倉幕府の要人であった安達泰盛らの勧進によって、嵯峨上皇をはじめ幕府の有力者であった北条政村・時宗らの援助のもと、20年の歳月をかけて弘安8年(1285年)に完成したという。 町数とともに180町を胎蔵界180尊、36町を金剛界37尊にあて、それぞれを表す梵字と施主の名前が彫り刻まれている。 これはなんと書いてあるか全く読めない。 施主の名前は時々わかる石がある。 こうして町石は高野山表参道の道標であるとともに、それ自体が道行きの信仰の対象ともなったのである。 1274年というと、蒙古襲来の文永の役の時期である。 やはり高野は歴史が深い。 石に刻まれている字には、風化の激しいのもあり読みやすいのとそうでないのとがある。 さて、上古沢から登り詰めたところにある町石は、124番である。 そこから、雨でぬかるんだ細い道を緩やかに登る。 靴がぬかるみに入り泥だらけになった。道には、オフロードバイクの轍の跡があった。 マウンテンバイクのタイヤ跡もあった。ここを走るのは楽しいだろう。 119番を少しすぎたところに、鳥居が2基並んだ二ツ鳥居がある。 11時15分であった。 少し早いが昼食にした。 ここからは天野の在所が一目で見渡せる。 田圃の造成の際、産業廃棄物を捨てて物議を醸し出したところでもある。 ひどいことをする業者がいるものである。今まで大切にしてきたおいしいお米のとれる田圃を、泥靴で踏みつぶすようなことをした。犯人に厳罰を下す必要がある。二つ鳥居からはなだらかな下りとなる。 「白蛇の岩」があるが、少し大きな普通の岩である。 しばらく行くと、応其池が見え、ゴルフ場が右手に広がる。 神田(こうだ)子安地蔵 コースの中の桜が綺麗であった。ゴルフ場のコースと並行して道が延び、コースそのものを横切るところもある。 いったんゴルフ場が切れたところで、地蔵堂がある。 「神田(こうだ)子安地蔵」である。 石段にはタンポポが咲いていた。お賽銭に10円入れた。 さらに歩くと林の中になり、町石から少し離れたところに2里石がある。 このあたりから道はなだらかになり、小さなアップダウンを繰り返す快適な道となる。 再びゴルフ場を右に見ながら、道は延びている。この天野の里には、悲しい恋の物語があるということで、humioさんが教えてくれました。 滝口入道悲恋物語 平清盛の宴で雑司「横笛」の舞「春鶯転」を見た平家一門の「滝口時頼(滝口入道)」は恋をしました。 時頼の恋心は募るばかり、ある日父親に結婚の許しを乞いますが許されることはありません。 三日としてあけず恋文を送る時頼でしたが横笛からの恋文の返事はなく、時頼は横笛への想いを断ち切る為に嵯峨野の地で出家します。 一方舞台以来、毎日たくさんの恋文を受け取る横笛でしたが時頼の手紙だけには心惹かれるものがありました。 しかし時頼の出家を聞いた横笛は青ざめます。 そして時頼が修行する往生院(滝口寺)へゆき、一目時頼に会いたいと懇願しますが過去の事と取り合ってくれません。 その後横笛は奈良の法華寺で尼僧となり修行に研鑚しますが、ある日時頼が高野山で修行をしていることを知ります。 横笛は女人禁制の高野山の山麓、天野の里(神田地蔵堂)へ移り時頼に会える日を待ちますが重い病にかかり、時頼に会えないまま19歳という若さで死を迎えました。 大円院八代住職に就いた滝口入道は部屋から庭先の古梅の木に止まる鶯に気がつきました。鶯は止まり鳴きもせず、ただじっと滝口入道を見つめています。鶯と目が合い滝口入道がハッとした瞬間、鶯は枝から離れ弱々しげに羽ばたき井戸に落ちてしまいました。 「横笛!」 滝口入道は井戸に駆け寄りました。 自らの後を追って出家し、天野の里で会いたいと涙にくれて死んでいった横笛のことを忘れたことはありませんでした。 滝口入道は井戸から鶯をすくいあげ亡がらを胎内に納めた後、阿弥陀如来を彫りました。 大円院の本尊鶯阿弥陀如来がその仏像です。 大円院八代住職が滝口入道であることは歴代の住職過去帳に記載されています。 悲しい恋の物語ですが、ここまで純粋な横笛と滝口入道が横笛を想い彫った仏像のお話はとても温かく心に留めておきたいなと思いました。 humioさん有り難うございます。 かわいい地蔵さんとしか見てませんでしたが、そんな悲恋物語があったのですね。 ゴルフ場をすぎてすぐに、小さな沼地が連続する。 ネコヤナギが咲いていた。沼地の中にはつくしんぼがあった。もっと季節が進めば、カエルが出てくるのだろうか? 沼地をすぎるとやや急な登りとなり、その頂上が笠木峠である。 峠を越えると緩やかな下り道が続き、楽な道行きとなる。途中、高野山道路と並行する。道路脇の桜が綺麗に咲いていた。 坂を下り終わると、矢立である。ガソリンスタンドがありたくさんの車が走り抜けていた。 それまで木や山ばかりを見てきたので、違和感を覚えた。右手にある矢立砂捏地蔵への石段を登り、拝みにいった。 足が少し重たく感じた。 矢立砂捏地蔵 矢立は、かつて細川と花坂の出村として栄えた宿場の一つであり、町石道はここで高野山道路を横断する。 地蔵堂の正面に「やきもち」と大きな看板の店があった。 歩き疲れたのと、これまでトイレがなかったので、そこで休憩することにした。 こぎれいなお店で、よく人が来ていた。営業時間は、一応5時までと言うことだが、餅が売り切れるとしめるらしい。 おみやげ用にやきもち一包みを買った。やきもちもお茶も、空きっ腹においしかった。 店の隅に茶釜があり茶筅の用意もあったので、ここで茶会もするのだろうか。 どうしているのか聞こうと思っていたが、聞かずに店を出てしまった。
袈裟掛石・押上げ石 再び町石道を歩き出してすぐ、六地蔵がある。六地蔵を越えたあたりから道は急に険しくなる。 茶店で休憩してなまった足にはきつい登りとなる。 55町石の先で、「袈裟掛石」がある。鞍のような形をしているので「鞍掛石」ともいう。 弘法大師が袈裟を掛けた石らしい。 この石から先は高野山の清浄結界となるのである。 そばに立っている案内板に、この石の下をくぐると長生きすると伝わると書いていた。 石の下をのぞくとなるほど穴があいている。 これをくぐれる人は何人いるだろうかというくらいの狭さの穴である。くぐろうとも思ったが、雨であり泥だらけになりそうなのでやめた。 そこから程なく「押上げ石」が見える。 大岩は、52番付近にあり、山にへばりつくような不安定な形であった。弘法大師のお母さんが結界を超え、入山されようとした時、激しい雷雨から火の雨となった。弘法大師がこの大岩を押し上げ母をかくまった。と、案内板に書かれていた。 その時の弘法大師の両手の跡が残っているというが、石の表面は苔などで覆われており、手形らしきものは分からなかった。言われてみれば、確かに押し上げたような感じで、岩は鎮座している。 きつい坂道を上りながら思った。弘法大師は月に九度もお母さんに会いに慈尊院まで通ったと言うが此の道を歩くには、かなり時間がかかる。一日がかりで降りて母親に会い、明くる日にまた登るとすれば、月のうち18日必要となる。 現実には日程として、かなり厳しいのではなかろうか。「弘法大師はマザコンやったんや」と勝手に結論づけた。 道は、そんな伝説にお構いなくきつく続く。さらにゆくと、再び高野山道路と交差する。 「熊に注意」の立て看板が道の両側にあった。一度熊に逢ってみたい気もする。 高野山道路を横切りさらに坂を上る。しばらく行くと綺麗な展望台がある。 ここからの展望はすばらしい。遠くは淡路島まで見えるという。ここでコーヒーブレイクにした。 長く歩いての小休止に、コーヒーとお茶がおいしい。 27町石近くの険しい所には、鏡のように平らな面の鏡石があると書かれているが、見つけることはできなかった。 この石の角に座って真言をとなえると、必ず成就すると言われるが、時間がないので探すのもお経もパスした。 実は、お経は全く知らない。 高野の山は、登るにつれて杉や檜の大木が茂り、昼なお暗く、いかにも聖域という感じになる。 朽ち木も多いが、それらには苔がまとわりつき、さらに静かな雰囲気を漂わせている。 鏡石をすぎるとなだらかな登りになる。高野山道路と並行して続いているため、車の音がよく聞こえた。 綺麗な小川と並行しているところに出るが、そのあたりから道は急に険しさを増す。 町石の番号が若くなってくるにつれ、さらに道は険しくなる。車の音がよく聞こえるので後少しと思ってもなかなか着かない。 道の周りには三つ又の花が綺麗に咲いていた。薄暗い山道で、可憐なその黄色は、ひどく目立っていた。 最後の急坂を、息を切らせながら登り切ると、目の前はもう大門であった。到着は4時30分で、10時前に歩き始めて6時間30分かかったことになる。 ガイドブックには、5時間30分のコースと書かれている。1時間ほど長くかかったことになる。 大門前のT字路に大きな気温計の電光板があり、14.5度であった。 高野の山頂にしては暖かい。歩いたために暑くなったのと、気温そのものがかなり高かったのである。 最後の急坂で汗をびっしょりかいた。 大門 やはり大門をくぐるとほっとする。 京や大坂から、はるばる歩いてきたいにしえ人は、この朱塗りの門を見て感慨ひとしおではなかったろうか。 高野山からは、当初は電車で上古沢まで降りる予定であったが、急坂の登りで少し疲れたため贅沢にもタクシーを使った。 車を置かせてもらったカジカドライブインのクローズが、5時ということを聞いていたので一宿一飯の義理で、何か買わなければと思ったこともある。 ドライブインに着いたのは5時を少しすぎていたが、観光バスが止まっており、まだあいていた。おでんを買って食べた。
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