熊野古道といえば、畿内から紀州・熊野三山へと通じる由緒ある参詣道です。
熊野へは高野山にお参りし、小辺路をぬけて熊野に向かう道もありました。
高野山 |
高野七口>> |
慈尊院 |
展望台 |
六本杉峠 |
丹生都比売神社 |
二つ鳥居 |
上古沢から |
神田子安地蔵 |
矢立砂捏地蔵尊祠 |
押し上げ石 |
大門へ |
大門から山内へ |
愛染堂から刈萱堂 |
奥の院 |
御廟前 |
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慈尊院 | ||||||||||||||||||||
とうとう、この慈尊院も世界遺産登録された。 町石道を歩くということは、世界遺産を歩くということである。 家からそれほど遠くないので、世界遺産登録後の慈尊院を訪れたが、看板が書き換わっていた。 社務所の方に「世界遺産登録されてから、変化ありますか?」と聞くと、 「歩きに来られる方が多くなりました」 と返事が返ってきた。 頂いた朱印にも、世界遺産の判子がきちんと押してあった。 高野山町石道は、高野山の根本大塔からこの慈尊院までの180町、奥の院までの36町の道筋に、参詣者の案内のための、卒塔婆を立てたのがはじまりというが、これは非常にありがたい。 点々とある町石は、農道と交差した所などで迷いかけた折りに、きちんと道案内をしてくれる。 先人の優しさが、こんな道しるべを立てたのか。当時は木が鬱蒼と茂っていたので、この町石は役に立ったであろう。 九度山の体育館に車を置き、歩き始めたのは、12時40分頃であった。 県道を少し貴志川よりに戻り、慈尊院に登った。 ![]() 門前は綺麗にカラー舗装がされ、町並みも昔のままなので、いかにも参道という感じである。 慈尊院は、明治5年に女人禁制が解かれるまで、女性は高野山へ入山できず、女性の高野参りはここまでであったという。 あの弘法大師の母親も、この慈尊院から高野にいけず、弘法大師が高野を降りて母親に合うため月九回も下山したため、九度山という地名がついたらしい。 境内の弥勒堂は、国の重要文化財に指定されている。 気品のある建物である。 安置されている像は国宝である。 慈尊院は、女人高野と呼ばれるだけあって、安産に御利益があるらしく、おっぱいの形をしたお札がたくさん奉納されている。 空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。 弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。 空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになった。 「慈尊院」という名称が文献に現れた最も早い例は、三条実行(藤原実行)の『鳥羽上皇高野御幸記』で、天治元年(1124年)、上皇が当地に行幸し、慈尊院の由来について尋ねたことが記されている。 歴史は古い。 |
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