|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
逆川王子~久米崎王子~井関王子~ツノセ王子~馬留王子跡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<逆川王子> 逆川王子の名の由来は、集落の南を流れる小川が、いったん東に流れて山田川に合流し、また南に流れて湯浅湾に入るためという。 王子社の境内はほぼ昔のままに保存されている。 湯浅は平安末期から鎌倉、南北朝にかけて勢いをふるった豪族湯浅氏の本拠地で、さらに熊野詣での大事な宿場でもあった。 秀吉の紀州征伐にめぼしい城も寺社も焼き尽くされたが、城下の伝統と海運の要地ということもあり、江戸時代には産業が栄え、同じ湯浅組の広村とともに誇り高い町であった。 「湯浅千軒、広千軒」とは、その繁栄を物語る言葉である。 王子社の近くに栖原温泉があり、糸我峠を越えて疲れたらつかってもいい。 湯浅城趾近くには、お城の形をした国民宿舎も近くにある。 逆川王子まで来たら、栖原海岸にでて施無畏寺に立ち寄り明恵上人の足跡をたどるのもおもしろい。 湯浅湾に浮かぶ苅藻島は和歌山県史跡で、特に夕景はすばらしい。 古道は、逆川王子を後にし、方津戸峠を登る。 途中の道端に、弘法大師が見つけた「弘法井戸」がある。 往事は旅人がのどを潤すいい休憩地であったと思われるが、今の井戸はドブ水でとても飲めたものではない。 こうした自然の恵みが消えると言うことは、環境が破壊されているということの現れである。 新しい道路をつけるのもいいが、綿々と人々に恵みを与えてきた自然を、後世に引き継ぐ方法で工事をしてほしい。 逆川王子を過ぎ、方津戸峠を越えると湯浅市街にでる。 方津戸峠の頂上付近には小さな庵があり、卒塔婆も立っている。そこから湯浅の町が一望できる。 湯浅が商売で名をとどろかせた頃、大事なお客様を出迎える場合はこの峠まで来たという。
●味噌は紀州育ちである。 平安時代のはじめの仁寿元年(851年)、唐の僧であった湛誉(たんよ)によって、加工味噌が日本に持ち込まれた。 そして、建長6年(1254年)になって、加工味噌の代表格である径山寺味噌(金山寺味噌とも表現されています)の醸造法が、紀州由良の興国寺の高僧覚心(法燈国師/1207~1298)によって伝えられたという。 将軍源実朝の菩提をとむらうため、家臣であった葛山五郎景倫によって建てられたのが興国寺(当時は西方寺)であるが、覚心はそこの開山となった人物である。 寺に入る前の建長元年(一二四九)、覚心は仏教を学ぶために宋、今の中国に渡り、五年にもおよぶ厳しい修行を積み、悟りを開いて帰朝した。 彼は「土産」として、宋の浙江省にある臨済宗の大道場、径山寺で学んだ味噌の醸造法を持ち帰ったのである。 味噌槽には、いり大豆と大麦の麹、それに塩が加えられて仕込まれるが、そこに細かく刻んだナスやウリ、シソ、ショウガも混ぜられる。 径山寺味噌の醸造法は、由良からここ湯浅に伝えられた。 水が良く、味噌づくりに適した湿度も持っている土地柄が評価されたからであろう。 伝統の技術に支えられた径山寺味噌づくりは、今も湯浅町から御坊市にかけて続けられている。 ●醤油も紀州育ちである。 その径山寺味噌作りのなかで、世界の調味料「醤油」が生まれた。 味噌づくりをしているうちに、味噌槽の上部や底に、赤褐色の汁が溜まることに気がついた。 好奇心が旺盛な職人がいたのか、偶然か、汁には旨みがあり、塩味や甘味や醗酵の香りがある、複雑で微妙な独特の風味を発見したのである。 食べ物を調理するのにふさわしい物だ、ということもわかってきた。 湯浅の味噌醸造家は、径山寺味噌づくりをするかたわら、この赤褐色の汁に期待をかけながら研究し続け、その努力がむくいられて、不思議な汁は、味噌から見事に独立することになったのである。それが醤油の起こりであるといわれている。 醤油の商品化ができ、湯浅の港から大阪にむけて、船積みされてゆく数は年々増えていった。 江戸時代には、紀州藩の保護を受けて醤油屋は栄え、百数十軒もの店が軒を並べていたといわれる。 正保二年(1645年)には、今の有田郡広川町の浜口儀兵衛をはじめとし、岩崎、古田らの諸家は関東に進出し、江戸に店を持った。 これが現在世界的に商いをしているヤマサ、ヒゲタなどの銚子醤油のもとである。 湯浅から日本各地へひろがった醤油は、海を越え、”ソイソース”として世界各地の食卓にのぼるまでになったのである。 今日も湯浅の町には、手づくり醤油屋から流れでる香りが満ち、歴史と誇りを伝えている。 手作り醤油として味が良いためファンが多く、土産物としても一級である。 (紀州おもしろブック 何でもかんでもわかやま より) 湯浅にはいって左に曲がると顕国神社がある。 それほど大きくはないが、綺麗な社である。 湯浅の町の古道は、2ルートがあり飛越橋を渡って別所方面に向かう中世の御幸道と、中世後期以降の、山田川北岸をとおり北栄橋を渡り、湯浅の中心部へとのびる道とがある。 この日は、飛越橋を渡り、湯浅の街に入った。 湯浅の町は道が狭い。 城下町でもあり、元々道が狭いのはやむを得ないし、感じのいいたたずまいの家が多いので、むしろこのままに昔をとどめておいてほしいという気がする。 できれば家屋もそのままのほうがよい。 町中にはいると、熊野古道ミュージアムとして、熊野古道沿いに水彩画や歴史を物語るおもしろいディスプレイがある。 それぞれが個性的なものを展示し、道行く人は、それを見ながら学習ができるようになっている。 これは、地元のボランティアグループが設置しているということで、思い思いに、灯籠や花なども飾られている。 湯浅町内のほぼ中央あたりに、立石(たていし)がある。 これは、天保9(1838)年に建てられたといわれ、2メートルを超す道標である。 北側に「すぐ熊野道」、東側に指差しの彫り込みがあり「きみゐてら」南側に「いせこうや右」と書かれている。 また、熊野に入る前に護摩をたいたといわれる護摩壇跡もある。 このあたりは、重要な道筋だったことがよくわかる。隣におもちゃ屋さんがあるが、往事の雰囲気をそのまま伝えている。 こういうお店は、我々団塊の世代は懐かしい。
<久米崎王子> 湯浅の町は道が狭い。城下町でもあり、元々道が狭いのはやむを得ないし、感じのいいたたずまいの家が多いので、むしろこのままに昔をとどめておいてほしいという気がする。 できれば家屋もそのままのほうがよい。 久米崎王子は、そんな湯浅の町を抜け、国道42号線にで、紀文茶屋バス停横の勝楽寺を過ぎ少しである。 金山寺味噌販売店の前の国道を渡り、せまい坂道を上ると左側に久米崎王子跡を示す碑がある。 数年ぶりに再びここ久米崎王子を訪れたが、荒れていた。 案内板はいいのができたが、敷地内にはゴミこそないもののこわれた灯籠やら案内板が散らばっていた。以前の方がはるかにきれいでよかった。 こうした施設は、残すための努力をしないとこうなる。 せっかく世界遺産に登録されてもメンテナンスを日常的にしないと世界遺産として色あせてしまう。 この辺のルートは遺産登録されていないからといって捨てられては困るのである。 京都から、熊野までが世界遺産として位置づける必要がある <井関王子> 藤原定家は、建仁元年(1202年)湯浅を雨の中を発ち久米崎王子を遙拝し、ここ井関王子についたとき、ようやく雨がやんだと日記に書いている。 ここの石碑では津兼王子と書いているが、御幸記ではここは、井関王子となっている。 この日湯浅を歩いてやっと探し当てたが、やっぱり湯浅は雨だった。 高速道路建設に伴い場所を移転し、以前歩いた折りには探すことができなかった。 今回、やっと見つけた。 前はまさか高速道路の事務所の裏にあるとは思ってもみず通りすぎってしまったのである。 新しい道に食われて、その跡形もなくなったのである。 久米崎王子から川沿いに歩き、国道や側道を縫うように歩いて、国道に出、広川インターチェンジ内に入る。 このとき案内板は、インターチェンジから降りてくる車を避けるため、歩道をいったん車の心配のない所まで歩かせ、ガードをくぐるのである。 しかし、やっぱり迷いかけてしまった。 最初に見かける看板のところで道路を横断すればいいわけだが、ここは気をつけないと高速道路からの車がやってくる。 道は再び国道に出てしばらく歩き、原谷の方に左折し河瀬王子そして鹿が瀬峠へと向かう。 熊野古道は広川町へと入る。 河瀬橋の手前にたくさんの鳥居が重なっている丹賀大権現がある。 ここには白原王子や井関王子が合祀されているとのこと。 白河法皇がここを詣でた折、体調を 崩したところ白髪の老人に救われたと言い伝えがある。 一番上の鳥居の前には足で踏んで立つ場所があり、そこに立ってお参りすると金銭的なご利益があるとか。 <ツノセ王子> ツノセ王子は、その呼び名のいわれはいろいろある。 川瀬王子あるいは津の瀬王子などと書かれているが結論はでていない。 藤原定家の日記には、「ツノセ」となっており、それは、定家が「川」を「ツ」と書き誤ったという説もある。 王子社跡は広川の河の瀬橋の近くの雑木に囲まれた所にある。 ほっと休憩する場所としては最適である。 近くの民家の前に碑があり、それには、広川が氾濫したときは左に行けば湯浅に行けるとある。 細い川であるため、梅雨時などは急流となり、渡れなかったのであろう。 古道はここから藤原定家を「崔嵬の険阻」と嘆かせた鹿が瀬峠越えとなる。 広八幡神社 湯浅駅から2kmほど南進し、広小学校前バス停の県道・国道交差点手前の道を右折し300mほどいくと、小山を背景にした広八幡宮に着く。 社伝によると欽明朝(6世紀)の頃、河内の誉田八幡神社から勧進されたようである。 室町時代建立とみられる檜皮葺き・三間社流造りの本殿と柿葺き・一重母屋造りの拝殿をはじめ、いずれも国の重要文化財の建物がある。 10月1日の秋祭りには田楽・乙田の獅子舞が奉納される。 神社には古い建物のほかに、鎌倉時代の来国光銘の短刀(国重要文化財)や南紀男山の焼きの傑作である1対の狛犬などもある。 神社の境内に明王院の護摩堂がある。 広八幡神社別当寺の仙光寺はかつては大寺であったが、現在はその一坊であった明王院だけが残っている。 2008年1月26日にここを参詣したが、イメージより荒れた感じの神社であった。 しかし往時の隆盛を物語るようにそれぞれがいい雰囲気で建っていた。 出初式の後だったのか境内に消防団の制服やらそれにまつわる機器などが置いてあった。 田楽や獅子舞を一度見てみたい。
<馬留王子跡> 馬留王子は、明治末年八幡神社に合祀された。 ここで乗ってきた馬を帰して、草鞋の紐を締め直し、鹿が瀬峠越えをしたのでこの名が付いたという。 馬留王子までの道の両脇の民家には、宿であったという看板がある。 馬などの養生したところといわれた養生場跡を過ぎ、亀屋、紀の國屋、松屋、竹屋藤屋、綿屋、枡屋、車屋などの旅籠が点々とあった。 この途中に白原王子があったが、河瀬王子に遷座したという。 長い道のりを歩いてきての鹿が瀬峠はきつく、ここで休んで明くる朝、峠に向かったのであろう。 王子碑をすぎて程なく道が二手に分かれるが、そこに「右くまの道 左念仏堂」と書かれた道標がある。この念仏堂とは、津木の里の、奥にある念仏堂のことである。 ▲ページトップに戻る
|