熊野古道 有田1
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蕪坂峠王子~爪書地蔵~山口王子~得生寺

蕪坂峠王子>
蕪坂峠王子
熊野古道は有田に入る。

そのはじめのこの「蕪坂峠王子」は、蕪坂すぐ下右手に竹藪があり社跡といっていたが、戦後畑に開墾されたという。
昭和41年 宮原神社へ合祀された。
蕪坂は宮原町道町から下津町沓掛へ越す坂で熊野参詣道のうちでも古くから陸路交通の要路であった。

万葉集に、


木の国の昔 弓雄の鳴矢もち 鹿獲りなべし 坂の上にある


とあり、紀伊国名所図会には、  

鏑矢もて 鹿を射ちし坂なれば蕪坂と名付しに や 峠に茶屋あり


と「鏑」が「蕪」に変ったものと記されている。
この周辺は、1999年の熊野体験博以来整備が進み、ずいぶんとよくなっている。周辺の景色もかなり変わった。
蕪坂峠王子
(2001年11月)
kabura1.jpg
(1998年)
蕪坂峠王子
(きれいな水洗トイレができた)
kanba3.jpg
(蕪坂峠王子跡案内板)

 太刀の宮 tatinomi.jpg

蕪坂峠王子から、少し下ったところに「太刀の宮」がある。
由来等は、看板もなく定かでないが、かなり古そうな神社である。
と、1998年に歩いたときは書いたが、今回(2001年)に歩くと、きれいな看板があり、縁起がかかれていた。
大阪夏の陣での真田幸村が関わっている。

道は下りばかりとなり、登りで疲れた膝を痛めてしまう。急がず、ゆっくりと周囲の景色を見ながら歩くと良い。

 爪書地蔵tumeka2.jpg
蕪坂塔下王子社から降りる途中、太刀ノ宮をすぎてヘアピンカーブを曲がると、弘法大師が大岩に爪で書いたと伝えられる阿弥陀・地蔵の二尊像を祀る爪書地蔵(市指定文化財)があり、今も人々から信仰されている。
古く遍照金剛寺と称し、境内周囲八十間 方二間の堂のみ存すると「続風土記」に見られる。
4米余の自然石に、阿弥陀仏と地蔵とが線刻されている。
疫病を治すと言われ、岩室城主、畠山政能の堂宇修理寄進の文書が伝わっている。
休憩する場所としてはもってこいの所である。


<山口王子>
山口王子
「紀伊続風土記」には、山口王子は蕪坂を宮原へ向っての、下り坂の麓にあると記されている。

また、宮原荘道村の条には、山口王子社境内及び周囲三七六間、ここにも旅人相手の茶屋三軒ありとも書かれている。
現在は、ミカン畑の続く道沿いに立て杭があり、案内板だけがある。
明治40年宮原神社へ合祀された。
山口王子昭和の初め頃まで、蘇鉄の大木が残っていたという。
現在は、蕪坂を下りたカーブのところの祠を王子としており、熊野体験博にあわせて案内板が立っている。

このあたりから、有田市街に入り、道は急になだらかとなる。
体力の弱っている現代人にとって、藤白峠、拝の峠を越えるのはかなりきつい。私も膝が笑ってしまい、後歩きに歩いた区間もある。
心して歩くことである

山口王子社をすぎてすぐに、街道往還の途中、不幸にも疫に倒れた人々の霊を慰め、この地の人達によ り「伏原の墓」がつくられており、今も四季折々の花が供えられている。
伏原から宮原駅までの間に、きれいな休憩所がある。こで長く歩いた疲れをとるといい。

山口王子
(案内板の記述)
山口王子
(伏原墓地)
山口王子
(伏原墓地案内板)
山口王子
(休憩所)

<糸我王子>糸我王子 熊野古道

中村王子から、紀伊宮原駅を過ぎ有田川にかかる宮原橋を渡り国道42号線を東に約1kmいくと、得生寺がある。糸我王子は、得生寺からまもなくである。

現在は稲荷神社に合祀されている。

有田市から湯浅までの古道には、「くまの道」と書かれた石標が所々にある。
竹林やミカン畑の間を登り、糸我峠を越えると次の逆川王子に向かう。
ここから古道は湯浅町に入る。(1998/10/23


 得生寺
熊野古道 糸我王子
得生寺(浄土宗)は、伝説によると、中将姫は747(天平19)年に右大臣藤原豊成の娘として生まれた。
琴に長じ天皇の寵愛を得たが継母の恨みをかい、有田郡雲雀山で首を打たれるところを姫の崇高な人柄に打たれた伊藤春時に助けられた。

春時は妻の松女と共に出家して得生・妙生と改名し姫に仕えた。

姫が15才になったとき鹿狩りに来た豊成により都へ連れ戻された。
17歳で大和当麻寺で出家し法如尼とよばれるようになり、29歳で二十五菩薩が来迎するなかで短い生涯を終えたという。 >開山堂には、中将姫・春時夫妻の座像が安置されている。
また、中将姫の作と伝えられる蓮糸縫三尊、紺地金泥三部経、称讃浄土経、大麻曼陀羅図なども所蔵されている。

毎年5月14日、姫の命日にちなんで二十五菩薩練供養会式が行われる。
「嫁をとるなら糸我の会式、婿がほしけりゃ千田の祭り」といわれるほどよく知られた行事である。
女子小学生が、姫のように聡明な徳を得ようと、二十五菩薩に扮して開山堂から本堂までかけた橋を渡る。
写真をする人にとって、二十五菩薩練供養会式はフォトジェニックで、一見の価値がある。

 稲荷神社

神社の由緒書きには、第27代安閑天皇(西暦531-535)の2年乙卯の春。稲荷神社 有田
引きつづく凶作を憂えた郷民は、高山に登り集って供御を捧げ、神を祭って豊作を祷ること数日に及んだ。
このとき『われは倉稲魂神にして天下の蒼生(民草)の作りなす種々の穀物は皆われの司る所なれば、その五穀の登らざる禍を祓い清めむとなれば、今教え示さんことを守るべし』とのご神託が下った。
郷民は大詔(おおみことのり)を畏まって承り、神の教えのままに励んだ処、霊験現れて百の妖災忽に除き、年穀よく稔って豊饒の本にかえった。 翌年、宣化天皇(第28代)の元年丙辰の秋、郷民は高山の半腹に社を創って大神を祠り、稲葉根社と称した。

第36代孝徳天皇(645-654)の白雉3年壬子の春、参詣に便なるよう社を麓に移し奉って稲生社と改めた。
時移って大神、紀伊國糸鹿に降臨されたあとの元明天皇(第43代・707-715)の和銅年間に、再び山城國三ツの峯(伏見)に降臨された。 この由を聞召された帝は、山城國鎮座の地を紀伊郡と名付けられた。
本朝最初の称号は、大神は伏見よりも170余年先に糸鹿の郷に降臨された、との伝承を裏付けている。
稲荷神社 有田
熊野地のいと高山のこなたなる、宇気の女神の森の木々に、御饗盛りなす雪野おもしろ。古歌にある宇気の女神は申すまでもなく倉稲魂神であらせられ、熊野地のいと高山は糸高山。後世たの字が省かれ、転訛して糸鹿山に改まった。
時代はさらに降って鳥羽天皇(第74代・1107-1123)の御宇、白河院熊野御幸の砌この辺に駐輦し、平忠盛をして奉幣せしめられたのも、神徳崇敬が故である。
またこの折のことであろうか平家物語(巻六)及び源平盛衰記に、「白河の院熊野へ御幸なる。 紀伊の國糸が坂という所に神輿を掻き据えさせ、暫時御休息ありけり。 其の時忠盛、薮に幾等もありける零餘子を袖に盛り入れ、御前に参り畏まって妹が子は這ふほどにこそ成りにけり(私の娘は這うほどに成りました)と申されたりければ、院はやがて御心得あって、忠盛とりて養育にせよとぞ下の句を附けさせ座しける」とある。
境内に立つ「御幣の岡」と馬場先に立つ「白川法皇みくるまをよせさせたまひし旧跡」。

まだ苔むさぬこの二碑石は後世の再建か、近代の創建かは定かではないが、上記の伝承を裏付けている。 当社は舊くから除盗難、除火難、農漁繁栄、海上安全等の神符を出しているが、この御符を所持するとき、「その感応なしと云うことなし」熊野古道に沿う糸我王子社(廃社)は、当社の摂社(本社と末社の中間に位し、本社に対し縁故の深い神の祠社)であり、また往昔、鎮守さまとして糸鹿荘内の村々に祠られていた数多の神々は、いま社域に奉遷して合祠申し上げてある。

10月12日 秋季大祭

とある。境内には巨大な楠木がある。

 雲雀山
熊野古道 雲雀山
得生寺を後に熊野古道を南下すると、雲雀山登山口と古道の分岐路に着く。
私は、そのまま古道を歩き雲雀山尾根と古道がクロスする「糸我峠」から山頂を目指した。
山頂からの眺めはすばらしく、歩いてきた宮原駅、宮原橋、国道42号線、そして得生寺がよく分かった。

左の写真下方に得生寺が見える。橋は宮原橋である。
有田市から湯浅町への古道歩きには、是非この雲雀山への寄り道をおすすめする。なお、登山道を行くと道すがらに、「親子対面岩」「行場跡」「写経の岩」などがあり、楽しめる。

熊野古道 雲雀山
(雲雀山山頂から有田川を見る)
熊野古道 雲雀山 熊野古道 雲雀山 熊野古道 雲雀山

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