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塔下王子~橘本王子~所坂王子跡~一壺王子社 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<塔下王子> この塔下王子は、明治42年、橘本王子神社に合祀されるまでは、若一王子神社として、イザナギノミコト祭神とする社もあった。 社のあった場所は、当時よりせばめられているが、地蔵峰寺の右側にある。 地蔵峰寺は、無住であるが、土地の人々に守られている。 この寺の背後に回ると御所の芝にいくが、そこからの眺望はすばらしい。 また、ここには冷水の喜六太夫が夢のお告げを得て、熊野詣でのためここを通る蓮如上人と出会った地であり、記念碑が建っている。 喜六太夫はこのとき蓮如から、法名了賢を授けられ、冷水浦に了賢寺を建てたのが、紀州最初の真宗寺院である。と伝承されている。 「紀伊名所図絵」では、「熊野第一の美景なり」とある。 特に夕景がいい。 おそらく熊野詣でをされた各上皇はここで休まれて和歌浦湾の明るい海を眺められたのであろう。 藤代や 山路はるかに 見わたせば ふもとにつづく 和歌の浦かな ただし、現代の和歌の浦は、マリーナをはじめとした近代施設があり過ぎて、昔の優しい景色はない。
地蔵峰寺 峠の地蔵さん」の名で親しまれている石造地蔵菩薩座像は本堂とともに国の重要文化財に指定されている。 3mあまりの大きな地蔵尊像が本堂いっぱいを占有している。 包囲をまとい左手に宝珠を、右手に錫杖をとって座している。 堂々たる石仏である。 本堂は室町時代の建立と考えられ、桁行 7.56m、梁間 7.99mで、屋根は寄せ棟造り、本瓦葺きでその優れた建築技法と禅家様式の濃厚な形態を示している。 石造宝篋院塔 藤代坂を登りきり地蔵峰寺が見える頃左手にスレートの小屋があり、その中に石造宝篋院塔とその外にい小さなお地蔵さんがある。 地蔵峰寺の境内であったらしいが、今は民家のガレージの上にある。 うっかりすると見落としてしまう。 この塔は、和歌山県下四大宝篋院塔の一つということである。 その歴史の割には小屋が粗末で、スレートでなく木でつくって欲しかった。 <橘本王子> 橘本王子社は、峠から南へ約3KM下った阿弥陀寺の境内に跡地がある。 神社合祀の際は存在も確認できなかったが、その後阿弥陀寺の境内にあった旧社殿の古材から1437年の棟札が発見され、旧社殿の造営が判明した。大正の初めに橘本神社に合祀している。 白河法皇の熊野詣での際、ここで詠まれた歌 橘の下に一夜の仮寝して入佐の山の月を見るかな 「中右記」(右大臣宗忠の日記-1109年の頃)に橘本(たちばなもと)とあり、昔からこの王子社の境内に橘の木があった。 明治20年(1887年)頃は、根本に空洞があり樹齢300年といわれた。 阿弥陀寺は、以前丈六山宝蔵院といい真言宗であったが、慶長元年(1598年)浄土宗として再建された。 「日本書紀」垂仁天皇の時代に田道間守(たじまもり)が常世の国から橘の木を持ち帰ったという伝説があり、この地に植えたという言い伝えに橘下王子と名付けられたとの言い伝えがある。 橘を温州ミカンの原種としての位置づけから、ここを紀州ミカン発祥の地としている。 2013年9月23日にここを再訪した。阿弥陀寺の本堂では彼岸会がにぎやかに行われていた。
福勝寺・裏見の滝 藤白峠を越えて古道を南に下がると、農道脇の右手に高い石段が見える。これが福勝寺である。 弘法大師の開基といわれているが定かでない。修験道との関係があったと想像される。 本尊の『千手千眼観世音菩薩』は、唐へ渡る直前の弘法大師が『旅立の観音 厄除の観音 雷除の観音』と3つのご請願を立て安置されたと寺伝に記されている。 江戸時代には、紀州徳川家の初代藩主 徳川頼宣公からも厚く信仰を受け、求聞寺堂という紀州藩主の祈祷所が建立され、その後は紀州藩主縁の厄除けの名所として現在に至る。 重要文化財である。 本堂は寄せ棟本瓦葺きで、桁行・梁間ともに3間(5.4m)の総円柱である。 正面3方に縁側がある。室町中期の建立と考えられる。 本堂の扉には、中に祀られている仏像などの名前を記した札がかかっている。 扉の中程ののぞき窓から中を伺い知ることができる。 右端には、弘法大師とおぼしき木像がある。小振りであるが、寺らしいたたずまいで、いい感じのお寺である。 本堂の左には大きな杉の木があり、その奥に裏見の滝がある。 高さ20m、幅30mあり、奥は洞窟になっている。 滝を裏側から眺められることから、紀州初代藩主徳川南龍公ご覧の折りに「裏見の滝」と名付けられたといわれる。 しかし今は滝がない。 雨が降れば滝のなるのだろうが、洞窟の奥の弘法大師刻と伝えられる不動明王がそのまま見えている。 日照りが続く折りなど、雨乞いをしたといわれているが、頼みの滝に水がない。 滝壺は、3m四方くらいの水たまりとなっており、その昔、修験者の行をする姿が想像できる。 2013年に再訪したが以前とほとんど変わりはなかった。 滝は少し流れていた。何故かもくずがにの死体がたくさんあり腐臭がしていた。 橘本土橋跡 峠の道を下りきったところに加茂川が流れていてここに土橋が架かっていた。 今は木の橋がかかっている。 紀伊国名所図絵には、この土橋付近には家が建ち並び、駕籠で旅する人・すげ笠を持いる人・親子連 れ・武士などという色々な人が通っているのが描かれている。 2013年9月23日に訪れた折には、この橋ではとうとう人と行き合わなかった。 昔の方が賑やかだったかもしれない。 北側には、地蔵・南側には三界萬霊碑(寛政5年《1793年》)があり、交通の要所であったのがわかる。 ここから一壺王子にかけて馬を用立する伝馬所や旅籠が軒を連ねていたものと思われる。 また、熊野詣での帰途藤白坂はあまりにも険しいのでここから加茂川に沿って下り、舟の津(今の塩津)から 舟で和歌浦に到ることが天仁2年(1109年)の中御門右大臣宗忠の旅行記「中右記」に記されている。 <所坂王子跡(橘本神社)> 所坂王子跡は、橘本王子跡のある阿弥陀寺から約700m離れた橘本神社がこれにあたる。 したがってこの橘本神社に塔下、橘本王子を合祀していることになる。 現在、柑橘とお菓子の祖太田道間守(おおたじまもり)を併せて祀っている。 「紀伊名所図絵」には、ところ坂王子社、この付近には「ところ」(やまいも科の蔓草)が多いところからこの名が付いたといわれる。地元の人は、ところ(土地)の坂だから所坂というのだという。 橘本神社の正面階段の構築は、緑泥岩を使い、きれいである。地元の伝説では、太田道間守が不老不死の霊菓を求めて、常世にわたりそこから持ち帰った橘6本が、この橘本の丘に植えられたという。 その後、橘は改良され、極上の菓(このみ)となり、「橘は、菓子の長上にして人の好むところなり」と謳われ、その橘にゆかりの深い神社は、菓子の祖神として世の信仰を集めたのである。 今も、6本木の丘と呼ばれ「偉哉田道之績」の碑があり、橘の木が神社の境内にある。 ここのルートは長いこと歩いていないため、2013年9月8日に歩きなおした。 景色は以前歩いた時とほとんど変わっていない。 改めて境内をみてみると、有名なお菓子メーカーの名前がある。ここはお菓子の神社でもある。
<一壺王子社(山路王子神社)> この王子は、一壺王子社(山路王子神社)「一坪王子」とも「沓掛王子」ともいわれ、現在は市坪・沓掛の氏神で山路王子神社と称する。紀伊続風土記には、拝殿・玉垣・鐘楼などがあり、瑠璃光山安養寺という神宮寺があった。 秋の大祭(10月10日)には、県指定の無形文化財の獅子舞(獅子幕内 7人・鬼 2人・笛 5人・太鼓 1人)があり、続いてこれも県指定の奉納花相撲が催される。 これは、内外の幼児が赤いふんどしを締めて、各々行事役の氏子総代に抱かれて土俵の上で一勝一敗になるように土俵の土をつけてもらい、子供の健康を祈願する。 一般に『泣き相撲』として親しまれている。 又子供による三人抜き・五人抜きも行われ、終日祭りで賑わう。 下津町内の王子は、峠や山腹にあったりで、古道や寺院なども昔のままをとどめているところが多いところでもある。 一日かけてハイキングのつもりで、ゆっくりと回るとおもしろい。 古道脇はミカン畑が多く、ミカンのオレンジと海の青さとの、コントラストが楽しい。 2013年9月8日に歩きなおした。 とちゅうびっくりしたのは山の上に風力発電のプロペラが何基か回っていたことである。以前はなかった。 古道は加茂川に沿って続いている。川の中を見るとアゲハチョウの軍団が川原の何カ所かに集まり、なにやら吸っていた。おいしいものがあるのだろうか。 川の中にはモズクガニがミカンを食べていた。私はカニを食べたかった。これは上海がにといい勝負のおいしさである。 一壺王子は山路王子神社にある。 今回は拝殿に上がり、祀られている神様をみた。 ここは、平安時代にさかのぼる。 現在は山路王子神社と呼ばれているが、建仁元(1201)年の『御幸記』には「次参一壷王子」とある。 延享3年の『南紀神社録』奥書によれば「市坪王子亦称、山路王子、市坪村往還之右」と記載されているという。 祭神は、山路王子 応神天皇 天照皇大神で、他に島姫神社 里神神社 道祖神社 妙見社 地祭神社が祀られている。 境内にかなり古いが椅子もあり、ちょっとした休憩ができる。 拝の峠 熊野古道の難所の一つである拝の峠へは、細い地道を行く。 「拝の峠」という茶屋があったという。 急坂を登り切って、ほっと一息ついたことだろう。 神武天皇ご東征の折り八咫烏に先導されたので、この名があると伝えられている。 万葉集には、 「木の国の昔 弓雄の響矢(ひびきや)用ち 鹿獲り 靡(なび)けし坂の上にぞある」 とあり、紀伊国名所図会には、 「鏑矢もて鹿を打ちし坂なれば蕪坂と名づけしにや」 とある。坂の頂上付近から、下津の長保寺に向かう道がある。 道の周りはミカン畑が多く、四季を通じ楽しめる。 峠からの眺めはすばらしい。 蕪坂王子までの峠道の、開けたところに、万葉歌碑がある。 安太へゆく 小為手の山の真木の葉も 久しく見ねばこけむしにけり 紀伊名所図絵によると、「小畑村(現下津町小畑)に才所という所があり、その峠は有田郡との境になっている。さいで坂が縮まったのであろう」とあり、真木とは優れた木、この歌では杉の大木と見るのがふさわしい。 一首の意味は、 「有田地方へいくさいで山の杉は久しく見ない間に苔むしていた」 ということである。 万葉歌碑からまもなく、石碑がある。 この道も、以前(2年前)歩いた時よりかなり改修されて広くなっている。 路側にあった木が伐採されているので、景色が見やすくなっている。 しかし古道としての雰囲気は少し薄れた。
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