芹沢光治良 せりざわ・こうじろう(1896—1993)


 

本名=芹沢光治良(せりざわ・こうじろう)
明治29年5月4日—平成5年3月23日 
享年96歳 
静岡県沼津市中瀬町14–1 沼津市営天神洞墓地

 



小説家。静岡県生。東京帝国大学卒。大正14年農商務省を辞し渡仏。昭和5年『ブルジョア』で『改造』の懸賞小説に当選、作家の道に入った。18年『巴里に死す』、38年自伝的長編『人間の運命』を刊行。40年日本ペンクラブ会長。ほかに『教祖様』『一つの世界』『神の微笑』などがある。







 死者は生きのこった人の記億のなかにしか生存できないという。人の記憶は時とともにうすれて、やがて死者も生きのこった人の記憶に存在することが難しくなるであろうし、生きのこった人自身、この世を去ってしまう時が来るが、その時死者がこの世にかけた願望や精神はどうなるのであろうか。
 和田稔君。
 君の戦死したのは廿年七月廿五日で、君の死を知ったのはその年の暮のこと、ちようど二年前である。出陣の前月まで月に二回僕の家に集つた二十数名の諸君のうち、戦歿したのは君一人、比島へ征った岩見君が行方不明のほか、他の諸君はみな無事に復員した。(中略)
 僕は君の心には共感したが、戦争にどう疑問を持つとも、国家の強制で征かなければならず、戦闘にのぞめば必ず戦うことに勇敢になれようし、死の覚悟も行動から自然に生ずるであろうからと、非情なことしか君に話せなかった。そして死をいそいではならないといましめることが精いっぱいだった。覚えているかしら、その時君はいった。
 「死を前に純粋な心でこれほど切実にもとめるのに、何もこたえてくれない哲学というものは、人生にとってどんな価値があるでしょうか。それは日本の哲学者はほんとうに人生の不幸に悩んだことがないので、人間の苦悶から哲学をしなかったからでしょうか、それとも哲学というのは、生や死の問題には関係のない学問で、学者の独善的な観念の体操のようなものでしょうか」
 僕は答に窮して、フランスに遊学時代に会ったことのあるベルグソンの話をしたのを思い出す。

(死者との対話)



 

 幼時、天理教に帰依した両親と別れ、〈捨てられた子、置き去りにされた子〉という深淵意識を持たざるを得なかった芹沢光治良。愛されなかった人の背にはやがて色さめた一生が覆い被さってくるものだが、光治良は人に恵まれ、一つの領域をもつ文学を信念を持って示してきた。文壇的にはほとんど孤立無援といわれた彼にとって、後の栄誉は何ほどのことであったろうか。
 遠くにかすむ風景はゆがんで見える。昨日、考えながら歩いた山道を今日は無心に 歩いてみよう。光治良がよく口にしたという「一日一生」、毎朝生まれ変わって一から仕事始めという人生態度、平成5年3月23日午後7時、老衰のため天寿を全うして神から与えられた一日は終わった。



 

 沼津・香貫山裾、緑影濃いこの市営墓地に「芹沢光治良/その家族の墓」はある。〈古ごろも ここに納めて 天翔けん 一九八二年 八十五翁 光治良〉と添え書きされた矩形碑の上部は大版の本がひろげられ〈自己確立のために 東大 パリ大学に遊んだが 病を得てから 自ら求めて学んだ イエスに生と愛を 仏陀に死と生を 中国の聖賢に道を 科学者の畏友ジャックに 大自然の法則と神の存在を かくして孤独に生きて ひたすらにただ書いた 光治良〉と彫る。すべては大仰に、名誉ある沼津市民として、あの「孤独」もどこかに吹っ飛んでしまったような華やかな記念碑と化している。
 ——〈文学は言葉なき神の意思に言葉を与えるわざだ〉。 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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