関根正二 せきね・しょうじ(1899—1919)


 

本名=関根正二(せきね・しょうじ)
明治32年4月3日—大正8年6月16日 
享年20歳(覚誉道順信士) 
東京都江東区猿江1丁目11–15 重願寺(浄土宗)




洋画家。福島県生。錦城予備学校中退。幼なじみの伊東深水の紹介で東京印刷会社図案部に勤める。大正2年から日本画を始めたが、のち洋画に転じた。大正4年『死を思ふ日』が二科展に初入選する。また前田夕暮の門下生らと文芸誌『炎』を刊行した。7年二科展に出品した『信仰の悲しみ』『姉弟』『自画像』などで樗牛賞を受賞したが翌年夭折する。素木しづ、上野山清貢、久米正雄、今東光らと交友があった。








 
 然るに多年の都会生活が、自分の芸術に、見えざる汚濁の色を混じてしまつたと悟つた。自分の芸術は長(とこし)へに青い北海と、鋭い雪の山脈を母体とした郷土の芸術でなければならない。しかし感ずると寧ろ煩はしい。この都会を捨て、其の処に帰らうかとも思つたけれど、絶へず現実に対して、煩悩の多きに苦しみつゝあるにとゞまつては、仮りに虚偽と精神なき物質文明によつて飾られたとはいへ、此の歓楽の火を点ずる都会を、未練もなく、亦愛着も抱かずに、冷たい昔の滅びた廃墟の如く、見捨てる気にはなれなかつた。彼(ママ)しは行かうと思ふ。なべての路に、懐疑せざるを得なかつた。
 併し自分だけは異常な、飛躍を試みなければならないと感じた。
 然らざれば、一般の社会の犠牲者の如し。
 私は黙々の裡に底の方へと葬られて行く。弱者のやうに、同じ渦巻の中に包れてしまふだらう。而して彼の夫婦の様になつてしまふだらう。尚ほ此の自覚と反省のある間は、自分はまだ未知数に属すべきものだ。

  

(大正5年の書簡から)



 

 けだし関根正二は詩人であった。同時代に生きた村山槐多がガランス色を愛した画家であり詩人であったように、関根もまたヴァーミリオン色を愛し、ゴッホを畏敬し、精神的、幻視的な作品を描いた静炎のように危険で謎めいた画家であったが、二科展に初入選した『死を思ふ日』、樗牛賞を受賞した『信仰の悲しみ』、絶筆になった『慰められつゝ悩む』などの題名に見る感性はまさに文学的であった。村山槐多は大正8年2月20日、22歳の生涯を閉じたが、関根はその頃から制作にかかった『慰められつゝ悩む』は完成したものの前年の暮れに罹ったスペイン風邪が肺結核にまで進行して衰弱甚だしく、死の前日には母や姉フサに支えられながら署名をしようとするも果たせず、槐多の死から四ヶ月後の6月16日午後1時30分、深川区東町、間口二間棟割長屋の三畳間でわずか20年の短い生涯を終えた。



 

 関根の住んでいたところからもほど近い猿江神社前の四つ辻角に有島生馬、安井曾太郎、津田青楓、久米正雄、前田夕暮とその門下生などが参列して告別式が行われた重願寺があった。2歳上の姉フサの嫁ぎ先、向島、奥田家の菩提寺である。本堂左の墓地入口に、戦災や関東大震災などの災害で殉難された人々の冥福を祈るために、みまもり観音が造立されている。関根正二は福島県白河郡大沼村(現・白河市)で生を受けたが明治のおわりころ、東北大凶作の煽りをうけて次男であった正二の父政吉一家は東京深川区東町(現・江東区住吉)に移住した。関根家の墓は郷里福島の白河にある菩提寺松林寺にあるのだが、正二は父や兄弟とともに昭和46年3月に奥田家の施主芳蔵が建立した「奥田家之墓」に埋骨されている。左側面に正二の没年月日と戒名(覚誉道順信士)が読める。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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