千家元麿 せんげ・もとまろ(1888—1948)


 

本名=千家元麿(せんげ・もとまろ )
明治21年6月8日—昭和23年3月14日 
享年59歳 ❖元麿忌 
島根県出雲市大社町杵築東507 出雲大社宮司歴代墓所




詩人。東京府生。府立第四中学校(現・都立戸山高等学校)中退。父は男爵千家尊福、母は画家小川梅崖(本名・豊)。大正2年頃から武者小路実篤をはじめ〈白樺派〉の作家と交わる。7年第一詩集『自分は見た』を刊行。自然や庶民の生活をもとに平明な口語による人道主義的な作品を発表した。ほかに詩集『虹』戯曲集『青い枝』などがある。








自分は見た。
とある場末の貧しき往來に平行した下駄屋の店で
夫は仕事場の木屑の中に坐り
妻は赤子を抱いて座敷に通るあがりかまちに腰をかけ
老いたる父は板の間に立ち
凡ての人は運動を停止し
同じ思ひに顏を曇らせ茫然として眼を見合して居るのを
その顏に現はれた深い痛苦、
中央にありて思案に咽ぶ如き痛ましき妻の顏
妻を頼りに思ふ如く片手に削りかけの下駄をもちて
その顏を仰いだる弱々しき夫の顏、
二人を見下ろして老いの愛情に輝く父の顏
無心に母の乳に食ひつく赤兒の顏
その暗き茫然として自失したる如き光景を自分は忘れない。
それを思ふ度びに涙が出て來る。
何事のありしかは知らず
されど自分は未だかゝる痛苦に迫つた顏を見し事なし
かゝる暗き光景を見し事なし                                 

(自分は見た)



 

 〈僕は楽園の詩人だ〉と語った千家元麿。昭和19年2月、長男宏がビルマで戦死。落胆した妻千代子は衰弱著しく、1年3月に疎開先・埼玉県飯能近くの吾野畑井で死去。その四ヶ月後に復員してきた次男潔と東京・豊島区東長崎でわびしい親子二人、四畳半の間借り生活を送っていたのだが、23年3月3日、米の買い出しに出かけて引いた風邪をこじらせ、気管支肺炎になってしまった。病臥のまま悪化をたどり、長与善郎が〈華族の子として産まれながら半生以上を陋巷に過ごし貧窮の中に暮して天楽を改めなかった〉「詩仙人」と偲んだ元麿の命運は、雨の降る寒々とした春の日の3月14日午後4時45分に蕭蕭と尽きた。2月6日の日記にあった〈一壺に挿して満たしぬ黄水仙〉が絶句となった。





 

 低く垂れ込めた雲に頂を隠された大社の杜を背にした出雲大社宮司歴代の墓所。自然石のふっくらと丸みを帯びた数十基の墓碑の中に、埼玉県飯能の墓所にあった妻千代子の分骨と共に埋葬され、武者小路実篤の筆を刻した「千家元麿/千家千代子之墓」、一叢の曼珠沙華を仄明かりとして静かに建っている。〈死んだ妻と息子よ 現世で君達を片時も忘れず離れず 互に安否を気遣ひ合つたやうに 今も私は君達を片時も忘れ得ず 墓の彼方の安否まで気遣つてゐる 墓の中は暗く寂しくはなからうか いつか私も君(達)の側に横になつて並び 永久の眠りに安息する日が来るだらう〉と詠嘆した元麿。最愛の妻と並んで静かに眠り、永遠の憩いを得ている。昭和32年1月、埼玉県の新しき村「大愛堂」に分骨が納められたという。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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