瀬沼茂樹 せぬま・しげき(1904—1988)


 

本名=鈴木忠直(すずき・ただなお)
明治37年10月6日—昭和63年8月14日 
享年83歳(翰林禅忠居士)
東京都港区南麻布4丁目11–25 光林寺(臨済宗)



評論家。東京府生。東京商科大学(現・一橋大学)卒。中学校教師をへて日本化粧品交易専務などをつとめる。大学在学中から伊藤整らと交わり、同人誌に加わり、またテーヌの『文学史の方法』の翻訳や、評論『現代文学』を発表して注目される。『評伝島崎藤村』『現代文学の条件』などがある。







 近代文學における自我の観念は近代個人主義の中核として個人的人間のうちに成立した。(中略)自我の追求が同時に社曾の秩序とならず、市民社會は階級分裂をきたして、不幸と混亂が現れ、社會が単なる個人の集合ではなくして、超個人的な論理をもって発展する實體あることを近代人の前に示すにいたった。人間は生物學的な個體して個人であるにはちがいないが、同時に超個人的な實體としての社會のうちにあり近代的市民はこの個人的自我をもってこの社曾と對決しなければならなくなった。本來、この對決を課題とすべき自然主義文學は自我の未成熟のために、かえって自我による自己観察をつづけ、漱石や鴎外や白樺派の時代にいたって、かえってこれと對決しなければならなくなった。この對決をとおして、自我分裂と解體をたどることになった。ここから現代のヒューマニズが、新しい課題として、社會のうちにおける新しい人間の発見と確立とをもって、新たに考察されなければならないことになる。

(近代文學における自我の問題)



 

 東京商科大学(現・一橋大学)在学中に伊藤整を知り、生涯の友となった。昭和5年、伊藤と川崎昇(詩人左川ちかの異父兄)の創刊した『文芸レビュー』同人になり、谷川徹三の知遇を得て、評論活動に踏み出した。
 〈古雑誌から虫眼鏡でたんねんに事実を掘り起すことに無限の情熱を持って〉いた根気と生真面目さは、文学を個人と社会の対比をとおして理論づけてきた瀬沼茂樹の文学批評の芯となり、多くの文学研究者にとって的確な指標となった。
 友人伊藤整の死後、その遺志を引き継いだ瀬沼は、昭和46年『群像』一月号に連載を始め、51年12月号、漱石の死を発表して『日本文壇史』を完成させたが、63年8月14日、彼の文学に対する真摯な歩みもついに止まってしまった。



 

 フランス大使館にも近いこの麻布界隈は、ようやくのこと夏の熱気も治まって、中秋の静寂に包まれている。
 虫の音に導かれるように踏み入った寺の墓地には、やたらと「古河家」の墓が多い。近くを流れる古川(渋谷川)にちなんだ地名に由来する縁者でもあろうか。探しあぐねて庫裡に教えを請うたのだが、和尚は「瀬沼茂樹」が何者であるかを知らない。無理からぬ事だが、四苦八苦の末やっとのことで檀家墓地台帳から探し出すことが出来た。「鈴木家之墓」は、左側面に戒名と俗名鈴木忠直、没年月日、享年が刻まれている。藪蚊が襲ってくる塋域に、方丈から何事もなかったように木魚の音に合わせた和尚の読経が聞こえてくる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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