新渡戸稲造 にとべ・いなぞう(1862—1933)


 

本名=新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)
文久2年8月8日(新暦9月1日)—昭和8年10月15日 
没年71歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園7区1種1側5番


 
教育者・農政学者。陸奥国(岩手県)生。東京帝国大学中退。札幌農学校(現・北海道大学)在学中キリスト教者となる。のち東京帝国大学を退校して米・独へ留学。明治33年英文『武士道』(BUSHIDO : The Soul of Japan)を刊行。大正7年東京女子大学初代学長。『随想録』『修養』「新渡戸稲造全集」などがある。






 

 武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって、我が国の歴史のさく葉集中に保存せられているのではない。それは今なお我々の間における力と美との活ける対象である。それはなんら手に触れうべき形態を取らないけれども、それにかかわらず道徳的雰囲気を香らせ、我々をして今なおその力強き支配のもとにあるを自覚せしめる。それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。ヨーロッパにおいてこれと姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時、ひとりパークはその棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。いま彼れバークの国語〔英語〕をもってこの間題についての考察を述べることは、私の愉快とするところである。
                                         
(武士道)



 

 農政学、植民政策論の先駆者で、最初の農学博士であった。理想主義、人格主義に根付いた指導者として、あるいはその著書を通じて多くの若い学徒、青年たちに大きな影響を与えた。
 帝国主義の台頭が著しい時代にあって、新渡戸稲造の望んだ国際平和の実現は夢物語となっていたが、〈太平洋の架け橋となりたい〉という彼の強い願いが衰えることはなかった。しかし、昭和8年、最後の力を振り絞って出席したカナダでの太平洋問題調査会会議の帰路、腹痛を訴えてバンクーバー近くのビクトリアで倒れ入院、10月15日午後8時35分、急性膵臓壊疽のため帰らぬ人となった。
 〈橋は決して一人では架けられない。何世代にも受け継がれて初めて架けられる〉という願いを残して。



 

 札幌農学校(現・北海道大学)時代の同窓生・内村鑑三が眠るこの霊園に新渡戸稲造も眠っている。
 〈武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である〉と書き出された著書『武士道』は世界各国、多くの言語に翻訳され、全くの未開国と思われていた日本という国の精神文化を世界に知らしめることとなった。
 遥か70数年を経て、日本は武士道のみならず、テクノロジーや経済、文化、スポーツなどの分野においても世界で主要な国の一つとなったが、稲造、万里子(アメリカ人女性の妻メアリー・エルキントン)と並んだ碑銘の前に横たわる大海原に、かそやかな虹が渡っているのを見たような気がする。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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