新田次郎 にった・じろう(1912—1980)


 

本名=藤原寛人(ふじわら・ひろと)
明治45年6月6日—昭和55年2月15日 
享年67歳(誓岳院殿文誉新田浄寛清居士)
長野県諏訪市岡村1丁目15–3 正願寺(浄土宗)



小説家。長野県生。電機学校(現・東京電機大学)卒。昭和7年中央気象台に就職、富士山観測所などに勤め、41年まで在職。『強力伝』で30年度直木賞受賞。『武田信玄』などで吉川英治文学賞を受賞。『八甲田山死の彷徨』など山岳小説の分野を開いた。『アラスカ物語』『聖職の碑』などがある。






 

 小宮は馬に心臓ふみつぶされた夢を見た。どっと吹き出す黒い血の中に小宮は呻き声を上げて眼を覚まし、窓から洩れる冷たい夜光に置物のように寝ている鹿野の顔から重く垂れ下っている低い天井に眼を投げた。屋根にぎっしり並べてある重い石のことを思うと、二度と眠りつけない圧迫が絶えず空間を越えて落ちてくるのを感ずる。小宮には自分の心臓が恐ろしい圧力で脅迫する鼓動の進撃の前に、悲しい反抗の乱調を繰返し、やがて締めつけてくる筋肉の重囲から逃げ場を求めようとして、遂にはぴたりと活動を停止するその瞬間が墓場のように暗い世界に感じられた。だがすぐ前にもまして速い、痛い程の内部から突き上げてくる尖頭圧力を左胸の表面局部にはっきり感じ出すと、息の乱れまでが異常になった身体の証明にも思える。この時ほど小宮は自身を喪失することはない。小宮は黙って胸を開いて、歯を喰いしばって、この苦痛こそは過去の経験に一つもなかった苛酷な試練だと考えながら閣の中にもがいていた。

(強力伝)



 

 昭和38年から40年にかけて気象庁職員として、富士山の気象レーダー建設に責任者として携わった経験もある新田次郎は、40歳を過ぎて作家になった。
 中央気象台の技官としての藤原寛人、流行作家としての新田次郎、二つの足場を確固とさせながら、山を愛し、山を舞台とした作品を数多く発表してきた。本人は〈山岳小説家〉と呼ばれることを非常に嫌っており、〈山を書いているんではなく、人間を書きたいのだから〉と常々語っていた。
 静寂、孤高に生きた作家は、昭和55年2月15日午前9時12分、東京・吉祥寺の自宅で心筋梗塞のため急逝する。死後その遺志により、ノンフィクション文学、または自然界に材を取ったものを対象とした〈新田次郎文学賞〉が設けられた。



 

 山門に続く参道両側には盛りを過ぎた紫陽花が残り香を漂わせている。境内墓地の中を流れる小川の赤い欄干を渡った先、小豆色の安山岩に「春風や次郎の夢のまだつづく 新田次郎」と刻まれてある。
 こっそり拓本をとる人が後を絶たず、拭いても拭いても墨で真っ黒で、と夫人の藤原ていを苦笑させた新田次郎の墓。歩きづめでほてった体を境石におろすと、思いの外ひんやりとして、あっと腰を浮かせてしまった。
  新田次郎の墓はスイスにもあり、昭和57年、夫人によってユングフラウへの登山電車の出発点、クライネシャディック駅裏の丘に建てられたその墓には、次のような碑銘の銅板がはめこまれている。「アルプスを愛した日本の作家新田次郎ここに眠る」



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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