新美南吉 にいみ・なんきち(1913—1943)


 

本名=新美正八(にいみ・しょうはち)
大正2年7月30日—昭和18年3月22日 
享年29歳(釈文成)❖貝殻忌 
愛知県半田市柊町4丁目208–1 北谷墓地 



児童文学者。愛知県生。東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人であり、昭和7年の童話『ごんぎつね』『のら犬』で認められる。17年第一童話集『おじいさんのランプ』、18年『花のき村と盗人たち』『牛をつないだ椿の木』を刊行した。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。






 

この石の上を過ぎる
小鳥たちよ。
しばしここに翼をやすめよ。
この石の下に眠っているのは、
おまえたちの仲間のひとりだ。
何かのまちがいで、
人間に生まれてしまったけれど、(彼は一生それを悔いていた)
魂はおまえたちとちっとも異ならなかった。
なぜなら彼は人間のいるところより、
おまえたちのいる木の下を愛した。
人間のしゃべる憎しみといつわりの言葉より、
おまえたちの
よろこびと悲しみの純粋な言葉を愛した。
(中略)
ところが現実の方では、
勝手に彼にいどんできた。
そのため臆病な彼は、
いつも逃げてばかりいた。
やぶれやすい心に、
青い小さなロマンの灯をともして、
あちらの感傷の海ヘ、
またこちらの幻想の谷へと、
彼は逃げてばかりいた。
けれど現実の冷たい風は、
ゆく先、ゆく先へ追っかけていって、
彼の青い灯を消そうとした。
そこでとうとう危くなったので、
自介でそれをふっと吹き消し、
彼はある日死んでしまった。
(中略)
彼はこの墓碑銘を、
おまえたちの言葉で書けないことを、
ややこしい人間の言葉でしか書けないことを、
かえすがえす残念に思う。                                         
                                                             
(墓碑銘)



 

 中央から遠く離れた地方にあって、教鞭を執りながら志半ばで亡くなった童話作家という観点から北の「賢治」、南の「南吉」と称されることになるのは、しばらく先、死後のことである。
 昭和17年1月10日の日記に〈小便の末に腐った血がまじってゐる〉と書き記した。以後、腎臓結核との闘いがはじまることになる。18年1月はじめからは床に伏し、3月になると喉の痛みがはげしく、20日頃にはほとんど声が出なくなってしまった。
 〈私は池に向かって小石を投げた。水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、それを見届けずに死ぬのがとても残念だ〉と絞り出すように繰り返した。昭和18年3月22日、29歳7か月、春の日の朝に南吉は死んだ。



 

 〈わが村をとおり、みなみにゆく電車〉は知多半島の小さな駅に止まった。ゆるやかな丘陵につづく乾いた道に、ミンミンゼミの騒声が降り注いでくる。墓地の真上には、熱い太陽があった。丘下の工業高校グラウンドでは球児たちの汗が散っている。
 新旧大小の墓碑を並べたこの墓地は、昭和8年に市内四つの墓地を集めて造られた。『ごん狐』のごんが隠れていた岩滑の六地蔵もその時に旧墓地からここに移され、赤い前垂れをして微笑んでいる。そよとした一吹きの風もなく、猛烈な熱気に包まれている。人間に生まれてしまったことを一生悔いた「新美南吉之墓」。昭和35年に父渡辺多蔵によって建てられたこの墓に、涼やかな木陰を提供すべきただ一本の樹木はすでに枯れ朽ちていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

    


   新島 襄

    新美南吉

   西田幾多郎

   西村賢太

   西脇順三郎

   新田次郎

   新田 潤

   新渡戸稲造

   丹羽文雄