森村誠一 もりむら・せいいち(1933—2023)


 

本名=森村誠一(もりむら・せいいち)
昭和8年1月2日—令和5年7月24日 
享年90歳(景光院穆山誠文居士) 
東京都町田市真光寺町203–1 東京多摩霊園E-3区
 


 

小説家。埼玉県生。青山学院大学卒。十年余りホテルに勤務。昭和44年『高層の死角』で江戸川乱歩賞受賞。ついで『腐食の構造』や『人間の証明』などの話題作を発表。七三一部隊をあつかった『悪魔の飽食』などのノンフィクションも手がける。ほかに『悪道』『野生の証明』などがある。







  

 人影もない山道を迫り来るたそがれと競争するように歩いて、 いいかげん心細くなったころにその山峡の湯宿は、目の前に忽然とあらわれた。建物は明治時代に建てられた古格のあるもので、廊下を歩くと、まるでアヒルが鳴くようににぎやかな音がした。私はその廊下を「アヒル張り」と呼んだ。その夜の泊り客は私一人だった。湯はぬるく何時間でも入っていられる。湯舟の中に将棋盤と将棋が浮かんでいた。どうしてそんな山奥の温泉を探し出して一人で行く気になったのか、今は記憶も定かではないが、当時取り憑かれたように、山に登っていた私はふと霧積というやさしい名前にひかれたのだろう。山登りといってもアルプスのロッククライミングのような先鋭なものではなく、尾根の縦走や峠越えや原生林を分けるさすらい派であった。そのために勝手気ままに歩ける一人旅が多かった。
 霧積に一泊した私は翌朝、群馬と長野県境を伝って浅間高原に抜けた。途中鼻曲山という一六五四メートルの山があり、浅間方面の展望が良い。季節はずれの寒い日で、その日も私はずっと山道を独占した。鼻曲山の少し手前で宿が用意してくれた弁当を食べた。 ノリで包んだ大きなにぎり飯が二個、それに昆布のつくだ煮と梅干が付いていた。なにげなく弁当を開いた私は、その包み紙に刷られていた「麦稈帽子」の詩を見つけた。
 「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?」という問いかけで始まるこの詩に私は激しく感動した。人影もない早春の山道を伝い来て雑木林の中のわずかな日だまりの中に身をすくめて食べた冷たい弁当。それをやさしく包んでいた麦稈帽子の詩は冷えきっていた 身体を心の底から温めてくれるように感じた。
 青春は人生のどの方角にも行ける無限の可能性を持っていると同時に、すべての方角から拒絶されているように未知の不安に包まれている。私の山歩きはそんな不安を紛らすためだったかもしれない。そんなときに「麦稈帽子」とのめぐり逢いは、不安にふるえる稚い魂を母のふところのやさしいぬくもりをもってすっぼりと包んでくれるようであった。 それは現実の母ではなく、幼い記憶の中に抽象化された母である。その詩から受けた感動は現実の母からももはや受けられない、それぞれの人がそれぞれの幼い日にすでに通過してしまった追憶の中の母のやさしさであった。

(人間の証明・単行本のあとがき)



 

 『高層の死角』で江戸川乱歩賞を受賞したとはいえ、推理作家としての地位を確立したのは学生時代に群馬県霧積温泉から軽井沢へ山越えしたとき、山宿の弁当の包み紙に書かれていた西條八十の詩、〈母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?ええ、夏,碓氷から霧積みへゆくみちで、谷底へ落したあの麦わら帽子ですよ。〉の一文を目にして生まれた『人間の証明』からであったが、学生時代から山岳部で日本百名山踏破を目標にしていたほど足腰には自信があった森村誠一も五十代からは職業病として腰痛に、晩年には老人性うつ病と認知症、二重の病に悩まされた。〈書けなくなった作家は「化石」である〉と叱咤激励しながら闘ってきたが、令和5年7月24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で力尽きた。



 

 旧来の鎌倉街道、真光寺バス停から左の側道へ入ってしばらく歩くと、古びれた鎮守社があり、そこから上り下りしてようやく霊園の入口にたどり着いたが、目指す墓所まではなお坂道を上り詰めなければならなかった。霊園の最奥右側にE-3区という区画があり、標識の左筋に平成25年7月に森村誠一が建てた森村家の墓がある。つい最近に縁者が墓参されたのか瑞々しい淡いピンクのスターチス、白いフリージア、洋ランのモカラ、カスミソウなどが供えられた桜色御影の墓石に「証明」と大きく彫られ、右下に小さく「森村家」とある。〈人間は一人で生きているのではなく、多くの「祖先」の存在があって自分があるのだ〉、〈墓は生者と死者が交流するサロンの役割も果たしている。〉と考えた作家の墓だ。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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