本名=森 有正(もり・ありまさ)
明治44年11月30日—昭和51年10月18日
没年64歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園3区1種9側
哲学者・仏文学者。東京府生。東京帝国大学卒。第二次大戦後、東大助教授になり、『パスカルの方法』『デカルトの人間像』などを刊行。昭和25年渡仏。そのままパリに定住する。『バビロンの流れのほとりにて』などを発表。パリ大教授として日本文学や日本思想史などを講じた。『遥かなノートル・ダム』『旅の空の下で』などがある。
僕はこの「手紙」の一番はじめに、人間の稚い時の魂は、かれが成長し、老熟しても変らないのではないかという意味のことを書いた。それはいわば僕の直観、あるいは単に感じで、それが僕の中でどういう経路をとって確認されるのか、全く知らなかった。自分の魂の同一であること、稚いこと、血気盛んであること、老い衰えていること、そういうことをこえて一つの魂が持続するものだということ、これは昔からたくさんの人が説き、あ
る人々は現世をこえて、来世、あるいは逆に未生以前の生にまでその考えを拡げて、一つの魂がいつも同一であることを主張した。僕は人間が生れる前や死んだ後までも、同じ魂をもって持続するのかどうか知らないし、また必ずしも今は知る必要がない。自分には一つの魂があること、自分には自分というものがあって、他の人とは異っているということ、これがあってはじめて、精神とか学問、芸術とかが意味をもってくるということ、これは、どうしても従来は、僕の確信となるには到らなかっ
た。ただ変らない自分というものが他と異った形である
という漠然とした感じがあるに過ぎなかった。この二カ
月の経過が僕にとって大きい意味をもつのは、これが一
つの確信に変化しはじめたということである。それは言いかえると、僕は僕自身を礎石とすることによってほかのものを恐れる必要がなくなったということである。しかし僕は考える。それには何という遙かな時の流れを必要とすることだろう。なぜかというと、僕には「自分というものが在る」と呼ぶだけでは不十分だからだ。それだけならば、誰でも声と言葉が出せる人ならば同じことを言うことできるからである。僕はそれを一つの思想と文字という客観的なものに、結晶させなければならない。
(バビロンの流れのほとりにて)
死の5年前の日記に〈僕の生は既に組織されているのであり、それを「歩ませ」さえすればよいのだから。僕は死を待つのみである。待つべきもの……。死以外には待つものなど何もありはしない〉と書き綴った森有正は、昭和51年10月18日午後1時45分(現地時間)、パリのサルペトリエール病院で頸動脈閉鎖症のため永遠の眠りについた。
パリ大学日本学生会館館長を7月一杯で辞し、8月17日には帰国する予定であったという。遺体は25日、ル・ペール・シェーズの墓地で火葬に付され、遺骨が次女聰子と共に帰国した。
哲学者であり詩人、思索する旅人であった有正は、26年もの間パリに生き、パリに死んだ。
秋半ば、茫茫とした草むらの中に、死とは消滅であり空無に対する命名だ、と観じた有正の墓はあった。参り道からは確と見届けることが出来ないほど雑草が伸びきっている。キリスト教者であった故人に祥月命日は関係ないのだろうかと、久しく縁者も訪れていない有様に息をのむ。
かつて、父埋葬の日を経て〈僕は一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。人影もなく、鳥の鳴く声もきこえてこなかった。僕は墓の土を見ながら、僕もいつかかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いていこうと思った〉と佇んだ場所に有正は還ってきた。
草に埋もれた「森家之墓」、閑として音もなし。
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