本名=森 茉莉(もり・まり)
明治36年1月7日—昭和62年6月6日
享年87歳 (常楽院茉莉清香大姉)
東京都三鷹市下連雀4丁目18–20 禅林寺(黄檗宗)
小説家・随筆家。東京府生。仏英和高等女学校(現・白百合学園高等学校)卒。文豪森鷗外の長女である。幻想的で優雅な世界を表現することに優れている。また、独特の感性と耽美的な文体を持つエッセイストとしても活躍した。『父の帽子』『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』などがある。
藻羅という女には不思議な、心の中の部屋がある。
その部屋は半透明で、曇り硝子のような鈍い、厚みのあるもので出来ていて、モイラの場合、外から入って来る感情はみな、その硝子を透して、モイラの中へ入って来る。うれしいのも、哀しいのも、感情はみなその硝子の壁を通って入って来るのだが、その硝子は、どこかに曇りのある、あの本物の硝子そっくりのものであるから、その厚みの中を透して入って来る感情はひどく要領を得ないものになってくるのだ。
入って来る感情は、硝子の中を通り抜けると同時にどことなく薄くなり、暈りとしたものになっている。その通り抜ける時の変化は、考えると、眼に見えている辺りのものがうすぼやけて、遠くへ行き、頭の中が霞んでくるような、妙な作用である。というのは、考えている内に、眼に見えるものもだんだんとその心の中の硝子を透き徹ってくるかのような、妙な気がしてくるからで、そのためか、モイラは眼に見えるもの、例えば人間、花、風景、それらの、他人がはっきりと認識している「現実の世界」というものを、どこか、薄暈りとしたものとして眺めている。
(甘い蜜の部屋)
文豪森鴎外の娘として生まれたのが運の尽きかどうか、終生〈父の娘〉としての評価がつきまとうのであるが、森茉莉にとっての鴎外は別格の存在だった。父の愛に包まれ、父との想い出を糧として、自らの文学に昇華させた幻想世界を読者に開放してくれた。二度の結婚から逃れた彼女にとって、現実は儚く危ういもの。幻想こそが茉莉の存在を支えていたのではないか。
昭和62年6月6日、東京・経堂のうらぶれたアパートの一室で家政婦に発見された茉莉、死後2日が経過していたという。
——〈わたしは死ぬ時、誰も気がつかずポストに新聞がいっぱいたまっていて、おやッと思ってあけたら死んでいた、そういう死に方がしたい〉。
桜木の葉の覆いから漏れてくる初夏の陽は、鴎外の「森林太郎墓」の碑面を斜めに走り、塋域の庭に通ってくるそよ風にのってチラチラと点滅している。鴎外の左は母志げの墓。その横に重心を落とした「森家墓」、碑裏に於菟、茉莉、異母兄妹の名を読む。
先ほど教師に連れられて、向かいにある太宰治の墓に詣でていたゼミの学生らしい娘さんが小走りに戻ってきて、はにかみながら「森林太郎墓」の花立てにも白菊を数本差していく。なるほど太宰の墓は花盛り、以前にはなかった津島家の墓が並び建っていたが、太宰とは相容れなかった三島由紀夫から〈文学の楽園〉に住んでいると愛された森茉莉、魂の鎮まる地が太宰の眠る真向かいとは皮肉なものだ。
|