森村 桂 もりむら・かつら(1940—2004)


 

本名=三宅 桂(みやけ・かつら)
昭和15年1月3日—平成16年9月27日 
享年64歳 
長野県北佐久郡御代田町向原1174 向原霊園B3 


 

小説家。東京都生。学習院大学卒。豊田三郎の長女。昭和41年ニューカレドニア島旅行記『天国にいちばん近い島』がベストセラーになる。結婚、離婚、再婚を経験し、『結婚志願』『それでも朝はくる』『アリスの丘の物語』などの体験的な小説を多数発表した。ほかに『違っているかしら』『もうひとつの学校』などがある。







  

 私はアルバイトに励んだ。ともかくも、学校を出て就職する為に。そしてもう一つ、父の娘として、どうしてもしなければならないことがあった。
 父の為に私たちがまずすることは、お墓を造ることだった。しかし、借金をかかえた私たちには、それは出来なかった。
 何よりも墓だ、父方の親戚たちはいい続けた。それをしない母をののしった。でも、誰一人お金を貸そうとはいわなかった。
 母はお墓を造らなかった。お金がないこととともに母は父を、見ず知らずの遠くはなれた寒いところに埋めたくなかったのだ。母は、骨壺を書斎に置き、いつも、そのそばにいた。
 この部屋は母の部屋でもあった。夜遅く私が帰った時、私は、電気をつけることにも気づかず、骨壺にひたいをつけている母を、いく度も見た。
 私は必死でアルバイトをしつづけた。娘として、私のすべきことはただ一つ、それは、追悼会の時に話が出、しかし結局は、立ち消えになってしまった父の短篇集を作ることだった。
 それは、お墓を造ることよりも尚、作家の娘として、せねばならぬことに思えた。
 父に、もはや、私たちはそれしかしてやることは出来ないのだ。
 命日の度に、お墓はお墓はと親戚に責められ続けながら、私は、
 「父は作家です。本が先です」
 といい放った。
 父が亡くなってから、二、三年の間に、母と私が、どうしても暮せなくなる時が三度ほどあった。
 もう、どうにもならない、という時、あれは、一体、どうしてだったのだろう、ちょうど、その必要なだけのお金が、父が亡くなる年に書いた本の重版の印税として振り込まれ、危く窮地が救われたのだった。
 「お父さん、まだ、このへんにいるんじゃない?」
 書斎の小さな床の間の骨壺をみながら、母と私は、不思議がった。
 その振込がピタリととまったのは、私が出版社に勤め、正式にお給料をもらうようになってからだった。

(父のいる風景)



 

 そのころ日本人がほとんど海外に出ていなかった時代に単身、鉱石運搬船に乗りこんで南太平洋に浮かぶフランス領ニューカレドニアに旅した体験記『天国にいちばん近い島』はベストセラーとなり、一躍、森村桂は脚光を浴びることになった。平易で軽妙、センチメンタルな文章で、はつらつとした女性を瑞々しく描いた作品が多くの読者を惹きつけてやまなかったが、昭和58年に軽井沢に拠点を移したあと「アリスの丘ティールーム」を開き創作ケーキなどにも力を注いでいた。晩年は鬱病による変調で入退院を繰り返し、自殺未遂なども起こしていたが、平成16年9月27日午前10時51分、長野県内の病院で死去。自殺とみられている。葬儀での友人代表の弔辞が美智子皇后(現・上皇后)だったことも話題にのぼった。





 

 秋空の向こうに雲を頂いた穏やかな浅間山が見える。標高七百メートルほどの南麓、一面の高冷地レタス畑が広がっていて、その向こうをしなの鉄道御代田駅を出た二両編成の車両が急ぐでもなくのんびりと信濃追分方面に向かって走っている。 農道を横切り、線路沿いの道を歩いていると突然、思いがけないところにわずか百余基ほどの小さな霊園が現れた。観音像の永代供養塔のすぐ先左奥に、彼女が亡くなってから夫の三宅一郎が身近に置いておきたいと自宅に持ち続けていた遺骨を三宅が亡くなった後、遺族が令和六年に「アリスの丘ティールーム」に近いこの地を選んで「一郎/桂」二人の墓を建てた。横には桂が描いた自画像と猫のプーさんのイラストの碑が置かれて、幸福だったアリスの丘の生活を忍ばせている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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文学散歩 :住まいの軌跡


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