二葉亭四迷 ふたばてい・しめい(1864—1909


 

本名=長谷川辰之助(はせがわ・たつのすけ)
元治元年2月28日(新暦4月4日)—明治42年5月10日 
享年45歳 ❖四迷忌 
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ5号37側


 
小説家・翻訳家。江戸(東京都)生。東京商業学校(現・一橋大学)中退。坪内逍遥の影響を受けて翻訳にすすみ、創作の道へ入る。明治20年逍遥の名義で『浮雲』第一篇を刊行、好評を得た。ツルゲーネフの『あいびき』『めぐりあひ』を翻訳発表、言文一致体文体は当時の文学者に強い影響を与えた。『其面影』『平凡』などがある。






  

 文明爛熟の色、匂、が即ちデカダンスの色であり匂ひであるのだ。此頃の肉慾描寫なんて事も、まア日本の文明の匂が出て来たのだと云へば、最も善意に解してやったわけになるでせう、強烈な刺激を要する本尊は即ち疲労のかたまりだ。かう云ふデカダンスの傾向が若い者の間にも見える。人まねでデカダンスぶられるのも閉口だが、さうなくてはならずになったデカダンスの人々程氣の毒なものはあるまい。
 二三日前に正宗君がやって来ましたっけ。始めて逢ったのさ。まづ二人が懐疑論から入ったとするだな、そして藤村操の「巖頭の感」あんな物は俺が死ぬなら俺は書かない、ただ死ぬる。あれを書くうちはまだ未練があるのだと云ふと正宗君が、「私は新聞や雑誌へ「巖頭の感」を書いて居ます。作は私の「巖頭の感」です。作が出来なくなった時は私の死ぬ時です。」とかう言って居た。やっぱり生れて来た甲斐に此世へ何か足跡を残して行きたいと見える。俺はそこが面白いと思ふ。其所が人間さ。
                                
(眼前口頭)



 

 二葉亭四迷の手で翻訳されたツルゲーネフなどの数々の作品や言文一致の小説『浮雲』は、島崎藤村や国木田独歩などの若い世代に深い感銘と強い自覚を与えた。明治41年、『朝日新聞社』の特派員としてロシアのペテルブルグに赴いたが、42年2月、日露戦争の頃から蝕まれてきた体は、不眠症や肺結核による発熱により衰弱の一途をたどるようになった。やむを得ず友人の勧めで、4月にロシアを出国して帰国途中、5月10日午後5時10分、ベンガル湾沖の『日本郵船』賀茂丸船室にて眠るように死去した。遺体は5月13日夜にシンガポール郊外のバセバンシャンの丘で荼毘に付され、遺骨は30日に新橋に到着した。シンガポールの日本人墓地にも墓が建てられてあると聞く。



 

 二葉亭四迷の筆名の由来は文学に理解のなかった父親から〈くたばってしまえ〉と言われた事から付けられたとされているのは俗説のようだ。『予が半生の懺悔』で書いているように、『浮雲』を出版するに際して坪内逍遥の名を借りたことへの自分自身に対する情けなさや愛想づかし、苦悶などの果てに放った言葉〈くたばって仕舞(しめ)え〉によるということだ。
 5月の祥月命日を少し過ぎたあたりに訪ねた二葉亭四迷の墓は、13回忌の後、東京外国語学校時代の同窓たちによって建てられた2メートルはあろうかという丈の高い平板な墓石であった。「長谷川辰之助墓」と彫られた右肩に「二葉亭四迷」の文字が小さく添えられ、背後の茂みを遮るように黒ずんだ石面が光っていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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