船山 馨 ふなやま・かおる(1914—1981)


 

本名=船山 馨(ふなやま・かおる)
大正3年3月31日—昭和56年8月5日 
享年67歳(寂照院天真談応居士)❖大祥忌 
東京都中野区上高田1丁目2–12 龍興禅寺(臨済宗)


小説家。北海道生。明治大学予科中退。中退後、新聞記者となり、椎名麟三らの『創作』同人に加わる。「第一次戦後派」の一人と目された。一時、ヒロポン中毒で低迷していたが、昭和42年『石狩平野』で復活。『茜いろの坂』で吉川英治賞を受賞。ほかに『北国物語』『お登勢』『蘆火野』などがある。






  

 それは修介であった。節子には顔を見るまでもなかった。
 ステッキを肩にかけ、折った両膝を抱えるようにして、坂を見下ろして道端に蹲っている彼の、まるめた背中の影が、茜いろの道をながながと延びて来ていた。
 「あそこ…」
 とだけ、呟くように守口に言って、彼女は通りを横切って、静かに修介に近寄っていった。
 茜いろに染められた遠い坂の果てに、なにかが小さくきらめいていた。メール・デユ・グラス氷河の舌端の氷壁に、夕日が投影して輝いているらしかった。
 しかし、修介はそれを見ているのでもないらしかった。というより、彼の視線は坂の果てに落ちてはいたが、いまはなにを見ているのでもなかった。
 彼はなにか口のなかで呟いていた。その呟きは切れぎれではあったが、かすかな節がついていた。
 節子は彼のそばへ寄ると、黙って彼とならんで蹲った。背中の長い影がふた筋になった。
 「夕焼け 小焼けの
 赤とんぼ
 負われて 見たのは
 いつの日か……」
 修介は節子に気づいた様子もなかった。
 彼の呟きは、童謡の「赤とんぼ」を口ずさんでいるのだった。
 それは、彼の意識には映っていないのかもしれなかったし、あるいは、意識そのものが、幼い日をさまよっているようでもあった。
                                                
(茜いろの坂)

                           


 

 主治医から余命半年の宣告を受け、遺書のつもりで書いた『茜いろの坂』。吉川英治文学賞の知らせが届いたのは昭和56年3月16日。船山馨は絶対安静の病床にあった。
 昭和23年6月に太宰治が入水自殺。朝日新聞に連載中の『グッド・バイ』は未完、船山馨の連載予定が繰り上がってしまった。過度な緊張と責任から、夫婦ともども重度のヒロポン中毒となり、長い低迷期間を経るが、40年からの連載『石狩平野』の成功によってようやく脱出する。
 それ以来、強靱な生命力、創作意欲によって数々の人間愛を描いてきた彼の原稿用紙にピリオドが打たれる時がきた。心不全のため8月5日午前7時10分永眠。驚くことにその日の通夜、春子夫人までも狭心症の発作で後を追ってしまった。



 

 夕暮れに近い本堂裏の墓地。季節はずれの蝶なども舞い、少しばかりの温かみと和らぎが漂っている。郷里の旧制中学時代からの友人である彫刻家佐藤忠良による墓碑である。
 「船山」とのみ彫られた黒いオブジェが、赤南天の群なりに安堵している様は『茜いろの坂』終章を思い起こさせる。〈人生の夕焼けの中で死にたい〉と主人公の口に借りた思いは遂げられたのだろうか。『お登勢』や『石狩平野』は、映画『北の零年』の下敷きになったと聞くが、北を向いたこの碑の望む先にも今日の陽は大地を染めて、静かに落ちていくのだろう。
 ——〈人はこの世の孤客なれば ひとり何処よりか来たりて 束の間の旅に哀歓し ひとり何処へか去るのみ〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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