本名=冨士正明(ふじ・まさあき)
大正2年10月30日—昭和62年7月15日
享年73歳
京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原1 宝積寺(真言宗)
小説家・詩人。徳島県生。旧制第三高等学校(現・京都大学)中退。竹内勝太郎に師事。昭和7年野間宏らと同人誌『三人』を創刊。22年島尾敏雄らと『VIKING』を創刊して活躍、『敗走』『徴用老人列伝』で芥川賞候補、『帝国軍隊における学習・序』で直木賞候補に挙げられた。小説に『贋・久坂葉子伝』『桂春団治』、詩集に『富士正晴詩集』などがある。

久坂葉子は弾きながら頭を上げて、上の壁面を見た。「古蘭よ」のころから、気になの方向から落ちかかって来ていたが、何か眼を上げてみる気がしなかったのだ。壁面の凹みに、まるでキリストの像がはめこまれているように鋳鉄の錨が斜に傾いて黒く鈍く光っていた。さっきの光は、その錨のスペード形の一方の刃から落ちて来ていたのだ。そして壁面の凹みに柔らかい光を投げている、両側の紅色のシェードのスタンド。電球は黄色だった。一筋の鎖が錨にだらりとからみつくようにかかっていた。海の底、船から断たれて落ちた錨、もう動かない、何もそれを動かすものはいない。そうしたことがふと頭に浮んで来た。眼を伏せた。けれど又、眼を上げた。錨の刃は久坂葉子の心を静かに誘うように、ゆさぶるように、紅色を灰かに帯びて輝いるのだった。夕焼のレールの表の光。車輪が疾走してしまった後も、何もなかったように夕焼の血の色をうっすらうかべているレール。岡本駅・六甲の駅。手がお留守になっていた。
(贋・久坂葉子伝)
〈竹林の隠者〉と呼ばれ、病院にも行ったことがない。世間とは距離を置いたが、来る者は拒まずで訪ねてくる者があると酒で歓待し、いつまでも話した。
〈身体にええことは、一切せんぞ〉、〈亡びるのは、ええことなんや〉、〈途中でうまいことチョン切ってもらいたい〉などとうそぶきながら、現世をいつも「つまらん」と言っていた。富士正晴は、昭和62年7月15日朝、大阪府茨木市安威、集落はずれの旧街道に面した丘の上、竹林の中にある古びれた家で一人ひょうひょうと逝った。そんな友人を司馬遼太郎は追悼文に記した。
〈富士正晴は虚空からきた魂のままこの世を生き、詩と文章をすこし書き、どこかへ帰って行った。遺族は故人の気分をよく知っていて、葬儀は無いという〉。
「天下分け目の天王山」へとつづく急勾配の登り道、この寺の石段に足をかけて振り返ると桂川、宇治川、木津川、水面がキラキラと光る三本の流れが眼下に一望できる。左右に堂宇と墓地を振り分け、山門から一直線に上っていく参道、三重塔の真上にある陽の光を正面に受けて「冨士正晴/靜榮」の墓は光り輝いている。
〈死んでしまった人間は死骸の中におらない。(略)ただ、訪ねて来たり、電話をかけて来たり、手紙をよこしたりしないだけだ。(略)ほんとは本日只今この瞬間、目の前にいない人間が生きているのやら、死んでいるのやら判るわけはない〉。こう断じた隠者はここに眠るのか、はたまたどこかの竹林のわら家の中で、酒でも飲みながら寝そべっているのか。
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