言葉は仮想現実だ

言葉というのは「今ここに無いものごと」を示すためにあるような気がする。今ここにあることなら、言葉を使わずに顔の表情や身ぶり等で示すこともできるが、今ここに無いことについて伝えるには言葉が必要だ。「今ここに無いものごと」は過去や未来やここ以外の場所にあるかも知れないし、どこにも無いのかも知れない。「今ここ」にあるのが現実だとすれば、言葉で示されるのは現実のまわりに広がっている世界である。現実のすぐそばに現実の可能性があり、ずっと遠くには非現実がある。

言葉は今ここに現実として存在するが、言葉で表されるものは今ここに存在しない。つまり、言葉は現実以外のことを現実化したものだとも言える。だから、言葉でものを考えるのは、現実ではない世界と繋がるということである。そういうわけなので、言葉でものを考える我々のアタマの中には仮想現実の世界があることになる。

言葉は仮想現実なのだから、コンピュータ技術など使わなくても、我々が話したり書いたりするだけで仮想現実の世界を作り上げているのだ。どれだけ客観的に事実だけを表現したつもりでも、言葉というのは仮想現実である。仮想してるのは誰かというと、その言葉を言ったり書いたりした人である。つまり、全ての言葉は誰かの主観である。

言葉というのは主観なんだから、常に不完全である。話し言葉の場合は聞き手がその場で質問や反論をすることができるのに対して、書き言葉は一方的に「既に確定したもの」として(不完全なくせに)エラそうに存在する。話し言葉は「未確定」なところがお気楽である。我々はエラそうな書き言葉を学ぶことでその「お気楽」さを失う。話し言葉には常に身体が伴っているが、書き言葉は身体から離れてしまっている。身体から離れた言葉はお気楽からも離れるのだ。

言葉は仮想現実なんだから、確定したってしょうがない。それなのに、書き言葉というヤツは自分勝手に確定している。形式の整った文書なんかはまるで現実そのもののような顔をしていて、我々の社会はその文書によって動いている。教科書も法律も契約書も帳簿も計画表もお金も時計もブランド品も、文字が書いてあるものはみんな文書だ。

我々は近代の学校で文書の読み書きを習い、文書の通りに行動することを身に付けた。それは要するに「書き言葉を現実として捉える」ということである。それによって文書という仮想現実が現実に見えてしまう。それは一種のマジックである。その魔力によって我々が子供の頃に持っていた「お気楽」な世界が消える。

近代社会というのは各個人がアタマで受け取った現実的な文書の通りに身体を動かして行動することで成り立つ。つまり、近代化とはアタマから身体へ(僕の説では大脳から小脳へ)の一方的な情報伝達である。ところが、それは非お気楽化なのだ。かといって、それをやめるわけにもいかない。仮想現実ではあっても文書は必要である。

お気楽さを失わないために大切なことは、言葉を仮想現実として捉えることだ。一方、近代社会を崩壊させないためには、文書を尊重して行動することも必要である。それらを両立させるためには、「非現実的なものごとを尊重して行動する」ということになる。これは想像力の問題だ。ところが、近代化というのは「現実的な文書に従って行動するようにする」ということで、それは想像力の排除みたいなものである。

言い換えると、これまでの近代化の時代には「アタマから身体への情報伝達」を一方的にやってきたが、これからは「身体からアタマへの情報伝達」も重要になるということだ。それは直接的な言葉では不可能で、イメージや比喩によって可能になる。やっぱり想像力の問題だ。想像とは「ここに無いものごと」について考えることである。そして、「ここに無いものごと」こそ言葉で表すべきものだったのだ。

 → 言葉は人を惑わせる