言葉は人を惑わせる

我々は言葉を使うことによって、ナマの現実から遠ざかる。現実から遠ざかると、自分の感覚が頼りにならなくなる。自分の感覚が頼りにならなければ、現実は恐い。現実は確かに恐いものだが、我々が言葉に頼るようになると現実は実際以上に恐くなるのだ。そうなると、更に現実から遠ざかって言葉に頼るようになるので、ますます自分の感覚が頼りにならなくなる。これは言葉に頼ることから始まる悪循環だ。つまり、言葉は人を惑わせるのである。

しかし、言葉を悪者扱いしても始まらない。言葉はそれなりの理由があって存在している。言葉が悪いのではなく言葉の使い方が悪いのだ。現実から逃れるために言葉に頼ると悪循環にはまるが、自分の感覚で現実に向かい、それを思い出したり伝えたりするための目印として言葉を使うのなら問題はない。問題は、自分の感覚と離れた言葉を使うことにある。ところが、言葉があふれる現代社会に適応するためには、自分の感覚と離れた言葉であってもウのみにしなければならない。我々の社会はそれほど巨大で複雑なのだ。現代社会が巨大で複雑なのは、ナマの現実と向き合いたくないという我々の欲望によって肥大しているせいだとも言える。

つまり、現代社会のシステム自体が我々の感覚を離れたものになってしまっているのである。だとすると、言葉を使う我々の頭が現代社会に適応したら、頭と感覚が分離してしまうことになる。そういう状態だと落ち着けるはずがない。反対に、頭と感覚を統合して落ち着こうとしたら、現代社会に適応できない。つまり、「頭と感覚」か「自分と社会」のどちらか一方がきっちり統合されるともう一方が決定的に分離する。無難に生き延びるためには、どちらも付かず離れずという中途半端なバランスを保たなくてはならない。だから、現代社会は妙に疲れる。

ところで、「人を惑わせない言葉」というのはあるだろうか。そんなものがあったら、我々はその言葉に頼ってしまって、現実を見失うだろう。「人を惑わせない言葉」は結果的に人を惑わせるわけである。人を惑わせない言葉は無いのだと言える。人を惑わせないかのように見える言葉こそが最も人を惑わせるのだ。一番マシなのは、人に「自分は言葉に惑わされているのだな」と気付かせるような言葉である。そう気付いたら、我々は現実に向かうしかない。ところが、その現実が恐いのだ。

現実が恐くなる前、我々は子どもだった。子どもは恐いもの知らずである。恐いものを知らないのは危険だが、その代わり自分の感覚を頼りにできるのは素晴らしいことである。頭と感覚が一致しているわけだから、妙な疲れ方もしない。しかし、ナマの現実には本当に恐い側面もあるから、我々はそれを学ぶ必要がある。恐いことを自分の感覚で学ぶには、恐い現実を経験するしかない。我々が恐い現実について学ぶのは恐い現実を経験しないためではなく(そんなことは不可能だ)、恐い現実を経験したとしても何とか切り抜けられるようになるためである。実際に経験する現実は実際以上に恐いものではないし、慣れると更に恐くなくなる。

そうやって感覚を鍛えるのは時間と手間がかかって効率が悪いので、現代社会の教育は言葉に頼っていた。言葉は社会的な情報伝達の効率のためにあるが、効率というのはの問題だ。効率を上げようとすると質は下がる。だから、我々の感覚は質が悪いのだ。しかし、その現代社会のシステムは変わりつつある。それも、「現実に向き合わなくてはしょうがない」という方向にだ。それはちょっと不安だし、いろいろと大変ではある。しかし、頭と感覚の分離が解消する方向であり、頭と感覚を統合することで社会に適応できるという方向だから、これまでのような妙なシンドさは無くなっていくだろう。そういう風に希望的に考えるしかない。