自己の範囲

僕という人間の構造の範囲は僕の身体に一致しますが、僕の機能の範囲はどうでしょうか。僕を知る全ての人々は、僕の言動や身体的特徴を単に記憶しているだけではなく、その記憶に基いて僕がいなくても僕の言動を想像することができます。その結果、腹を立てたり面白がったりすることもあるでしょう。つまり、人々の中の僕の記憶は僕の一部として機能します。僕の機能は僕を知る全ての人々の精神の中に広がって存在するわけです。僕に関する記憶は僕の一部として機能するとともに記憶している人の一部でもあるので、僕の精神と僕を知る人々の精神とは重なり合って存在していると言えます。

逆に、僕の中にも僕が知っている人々の記憶が存在して、その人々の一部として機能しています。僕が僕の属する社会の人々全員と知り合いであるならば、僕の中にある人々の記憶の全体が僕にとっての社会です。その場合、社会とは具体的なものです。しかし、我々の社会は大きくて、我々は社会のほとんどの人のことを具体的には知りません。したがって、我々にとって社会とは抽象的なものです。

抽象的な社会の中にいる自分というものを考えるとき、自分についての把握も抽象的にならざるを得ません。しかし、自分というのは実際には具体的なものでもあり、抽象的な社会の中には収まりません。無理に収めようとすると、具体的な身体を持つ個人と抽象的な社会とが重なる部分に抽象的な自分というものが生じます。その部分は抽象的社会に収まりますが、残りの身体的な自分は社会からはみ出てしまうことになります。抽象というのは意識の作用なので、自分についての抽象的な把握も意識によってなされるものと考えられます。ここで言う「抽象的社会」「具体的自分」「それらの接点である意識」は、精神分析で言う「超自我」「イド」「自我」にそれぞれ対応していると考えることもできます。

大きい社会における自己というのは、「抽象的社会」と「具体的自分」と「それらをつなぐ意識」の三者を合わせた全体であると考えられます。このとき、抽象的社会は社会を構成する人々の間でおおむね共有されているので、その部分においては各個人の自己は独立ではないということになります。また、社会的行動の際には、時刻というものを意識することによって「現在」を共有していることからも、各個人の意識は全く独立ではないと言えます。つまり、自己というものは身体構造としては独立しているが、精神機能としては重なり合う部分もあるわけです。

では、小さい社会における自己とはどのようなものでしょうか。小さい社会とは社会に属する人々全てが互いに知り合いであるような社会です。そこには抽象的他人は存在しないので、抽象的な自分というものが生じにくく、意識的な自我が発達せず人々は非意識的に生きているでしょう。小さい社会とは具体的な社会であり、具体的な自分はその中に収まってしまいます。そこでは自己の範囲と社会の範囲は一致することになります。