月を超えろ

奥田民生は「月を超えろ」と言う。超えてどこへ行くのかというと(歌詞によれば)「明日へと」である。「月を超えろ」のリードギターはビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」のエリック・クラプトンの真似みたいだが、そのクラプトンが去年出した「PILGRIM」のジャケットにも月が出ている。辞書によると pilgrim とは「巡礼者、放浪者、旅人」である。そして、moon という言葉には「ぼんやりうろつく」という意味もあるらしい。「PILGRIM」と同じ頃に出た奥田民生のアルバムのタイトルは「股旅」である。pilgrim という言葉を奥田民生らしく翻訳すれば「股旅」ということになるだろう。「股旅」の1曲目のアオーーーーンという声は、たぶん月に吠える狼である。そういうわけで、月は明日への旅を象徴しているようである。

太陽は「当り前」の世界を照らす。当り前の世界は目に見えるのだ。そして、我々が意識的に捉えることができるのは目に見える世界である。目に見えることは他人に伝えることもできる。それに対して、月が象徴するのは「何となく」の世界である。「何となく」の世界は目に見えない。「何となく」の世界は身体で感じる世界である。その世界は身体で感じるリズムと気分でできている。月はそういう目に見えない世界を比喩的に照らすのだ

月が出る時刻は毎日50分ずつ遅くなる。月は太陽からほんの少し遅れたリズムを刻む。つまりレイドバックしているのだ。月のリズムは地球上では潮の満ち干として表現される。そして、我々の身体は月のリズムにノリが合っている。から来た我々の身体は24時間50分周期の海のリズムを覚えているのだ。ものの本によれば、我々は毎朝太陽の光でリセットすることで太陽のリズムに無理やり合わせているらしい。(したがって、飛行機で西へ飛んだ時の時差ボケはラクなのである。時間を遅らせる方だから。)月の光を浴びることは、太陽の照らす「当り前」の世界のリズムから「何となく」の世界のリズムに戻すための試みなのだ。マキシ・シングル「月を超えろ」の4曲目「MOTHER」によれば、明日に向かうための正しい心は「忘れること」である。頭で覚えた「当り前」の物事を忘れるということだ。

ところで、アニメ「おじゃる丸」のメッセージも「月を超えろ」というようなもんである。おじゃる丸が平安朝から現代(近未来?)にタイムワープする通路は「月夜が池」の「満月ロード」で、やって来た町の名前は「月光町」なのだ。番組のオープニングでも、「おじゃる丸」というタイトルが満月の中からびよーんと現れてくる。おじゃる丸も「何となく」の世界から来たのだ。ついでに「だんご3兄弟」の歌詞にもちゃんと月が出てくる。

僕の息子は、ママのお腹に入る前は「月にいた」のだと言う。僕もママもそんなことを教えていないし「かぐや姫」の話をした覚えもない。彼が自分から言い出したのだ。月は「何となく」の世界への入口であり、我々は「何となく」の世界から来たのだから、息子の言うことは比喩的な意味で正しい。「何となく」は比喩的にしか表せないのだ。奥田民生の言う「月を超えろ」ももちろん比喩的な意味である。宇宙開発を推進して火星まで行こうという意味ではない。「月を超えろ」であって「越えろ」ではないからだ。「月ひとしずく」という名曲もある。今夜の月も見ないとね〜。