海と青空

露天風呂に浸かって空を見るくらいリラックスできることはないんじゃないだろうか。大きなお風呂に入ったら、首を浴槽の端に乗せ、身体を伸ばして「脱力」するのが基本である。ふううう。そうすると、顔が上を向く。露天だから、上を向いたら空が見える。空は広い。その広い空をぼおっと眺めていると、自分の中にある空を眺めているような気がしてくる。露天が無理なら窓からでもいい。とにかく、空が見えることが大事なのだ。海が見えるともっといい。

空は青い。多少雲があっても構わないが、とにかく、空が青いということは昼間なわけだ。昼間っから風呂に入っているからには、今日は休みだ。明日のことは知らないが、今日はとにかく休みなのだ。そして、裸である。格好を気にする必要もない。お湯だってガバっと汲んでザーっと流せばいいだけだ。自分がやりたいようにテキトウにやればいい。しぶきをかけたりしない限り、誰も文句を言わない。

浜辺の波打ち際に寝っ転がるのでも、プールサイドに座っているのでもいい。清流に足だけ浸けているのでもいい。とにかく水と空のあるところはリラックスできる。それは我々が「水生のサル」だからだ。人間は他のサルと違って、体毛が薄く皮下脂肪が厚い、指の間に水掻きがある、顔を水に浸けると代謝や血流が変化する反射がある。それは人間は水辺の生活に適応したサルだからだ、という説がある。僕は昔からこの説が好きだ。

我々の身体は水辺に適応しているのである。水辺にいるのが自然なのだ。そして、水がある所には木がはえていないし、水面は平らで影はできない。そこには必ず空があるのだ。自然の水辺というのは空が見える場所で、我々はそこに適応しているのだ。

リラックスというのは身体を意識から解放することだ。意識から解放された身体は自然な状態に戻ろうとする。我々の身体にとっての自然な状態は水辺にいる状態である。だから、水辺に行くとリラックスできるのだ。そして、そこには空もなくてはならない。そういうわけで、奥田民生は「Mother」という曲で「僕らは海と青空に誓った」と言っているのだろう。

参考文献:
「アースワークス」ライアル・ワトソン1985
「イルカと、海へ還る日」ジャック・マイヨール1983,1986
「人は海辺で進化した」エレイン・モーガン1982,1989