情報論

情報とは変化です。「何の変化もないこと」も情報ではありますが、その場合は「変化があるかどうか判らない状態」から「何の変化もないことが判った状態」への変化が情報なわけです。我々の知り得るものごと(情報)は全て変化するし、我々自身も変化するので、ものごとの本質は「変化」であると言えます。ものごと全ては様々な形の変化ですが、我々はその中で目立たない変化を構造(空間)として捉え、繰り返す変化を機能(時間)として捉えるわけです。そのほかに「一回きりの変化」というのもありますが、一回きりの変化は一般化できないので、ありのままに捉えるしかありません。

我々が外部の変化という情報を知ることは、我々自身を変化する部分とあまり変化しない部分に分けることでもあります。我々が外部の変化を知れば、知ったということにより我々の方も変化します。それが記憶です。そうやって新しい記憶が生まれたとしても、変化する前の状態の古い記憶も保っていなければ、変化したのかどうかはわかりません。つまり、我々が何かを知ることができるのは、我々自身の一部が変化し一部は変化しないからです。新しい記憶が生まれるのは変化する機能であり、古い記憶が保たれるのは変化しない構造です。しかし、それらは「記憶」というひとつのシステムをふたつの側面にわけて表現しただけのことです。

では、なぜ我々は変化を構造と機能に分けてしまうのでしょうか。それは言葉にするためです。我々の「脳/心」の中には感覚器官を通じて外界からの情報が入ってきています。そこには、不変と思われるほど目立たない変化から、我々の感覚が追い付けないほどめまぐるしい変化まで、様々な変化があるはずです。暗黙の状態では、それらは我々の中にそのまま存在できますが、言葉にするためにはどこかで区切りをつけなくてはならず、ものごとを構造(モノ)と機能(コト)に分けてしまうことになります。なぜ言葉にする必要があるのかというと、情報伝達の効率のためです。

しかし、言葉はものごとの本質を分解するので、情報の質を下げます。そして、そのことを警告するのが哲学だと思います。したがって、完全な哲学は存在しません。哲学の警告が完全に機能すれば、哲学の役目はなくなるはずだからです。「言葉は情報の質を下げる」ということを言葉で言うのが哲学だとすれば、それを無言で示すのが芸術です。芸術というのは、言葉とは別の情報処理の方法です。言葉が効率のために分解してしまう「ものごとの本質」を、芸術はなるべく分解せずに扱おうとします。だから暗黙の情報量が「美という価値」を高めることになります。言語芸術である文学は哲学と芸術の中間にあるのではないでしょうか。