人間とは何か

「人間とは何か」を考える 電子書籍「小脳論」

人間の定義については「二足歩行する動物」とか「道具を使うサル」とか色々言われますが、そういう定義が示すのは抽象的な人間像だと言えるでしょう。人間の受精卵や赤ん坊や睡眠中の大人や怪我や病気で身体が動かせない人などは、それらの条件を満たさないにもかかわらず人間以外の何ものでもありません。また、他の動物も一時的に二足歩行することや道具を使うことがあります。つまり、抽象的な定義は人間というものをちゃんと表現していないことになります。

人間の定義を正確に言おうとすると、例えば「二足歩行することが多い猿」ということになりますが、その場合は「猿とは何か」の説明がありません。猿とは「ナントカカントカな哺乳類」だとすると、今度は哺乳類とは何かが問題になります。以下、延々と「脊椎動物」や「動物」や「生命」について、つまり系統発生と言われる生命の歴史を遡って説明する必要があります。また、受精に始まってに至るまでの個体発生と動物としての生活史についても説明しなくてはなりません。

ところで、人間がそのように動物としてだけの存在であるなら「人間とは何か?」などと考えることもないと思われます。したがって、人間とは「人間とは何かを考える動物」であるとも言えます。そうだとすると、人間とは何かを考える場合には、動物や生命としての人間の歴史を考えるのと同時に、「人間とは何か」について考えるようになった歴史についても考えなければなりません。

「人間とは何か」というのは言語による思考なので、言語について考えてみます。言語はまず音声言語から始まったと思われますが、音声言語はその場に居合わせた相手にしか伝わらないので具体性があります。話す人と聴く人はお互いを具体的に把握し合うことができます。一方、文字言語というのは書く人と読む人が時間的空間的に隔たっているため、お互いを具体的に把握することができません。したがって、言語で表現された明示的情報だけが強調されることになり、音声言語より抽象性が高くなります。

全員が互いに把握しあえる規模を越えた社会において「抽象的な他人」という概念が生まれ、抽象的他人を把握するために文字言語が生まれたのだ、と僕は考えます。音声言語だけの社会では、人間とは「具体的に把握できている我々全員」のことであり、そこでは「人間とは何か」という疑問は生じないと思われます。全員がお互いを把握しきれない大きな社会においては、抽象的な文字言語が発達し人間という概念も抽象化するので、「人間とは何か」という疑問が生まれるのではないでしょうか。そうだとすると、人間とは何かという疑問を解消するには人間について具体的に知るしかないということになります。